コロナと禅
対本さんは今も朝5時からの1時間を坐禅に充てている。同じ時間帯には日本にいる弟子たち、英国にいる仲間も瞑想に入り、時空を超えて心を交流させる。
コロナ禍における病院経営は多難だ。感染が急速に広がる首都圏に比べればまだ平穏だが、どう院内感染を防ぎ、高齢患者を守るかに心を砕く毎日だ。外から来るドクターにはPCR検査を受けてもらい、医療従事者やその家族には、感染症流行地域との往来の自粛など、リスクの高い行動を控えるよう注意喚起している。示しをつけるため、対本さん自身、一歩も大館から離れていない。
次々に起きる目先の出来事に追われ、対処に迷う中で、責任者として的確な決断を下すしかない。そういう場面でこそ、坐禅で培った「平常心」が役に立つのかもしれない、と対本さんは思う。
「臨床はエビデンスに基づく医療です。だが、そのエビデンスにどこまで信頼を置けるか、わからないこともある。何年にもわたって観察してきたウイルスと違って、新型コロナの挙動は分かっていないことも多く、薬が効くかどうかも不明だ。きわめて短い時間の間に刻々と状況が変化していく場合には、情報に振り回されず、状況を冷静に見つめることが大切だと思います。全てのものは変化し、片時も停まることがない。院長としてすべての責任を引き受けねばならないため、ベストの選択として自分が選び取っていくしかない」
対本さんは2011年、臨済宗妙心寺管長(当時)の河野太通師と対談本「闘う仏教現代宗教論」(春秋社)を刊行した。その中で対本さんは、人体に備わっている免疫の働きについて、次のように語った。仏教には自分と他者が一つであるという「自他不二」の悟りがあるが、免疫はそれとは反するのではないか、という指摘である。
「いのち、生命体ということですが、これは決して自他不二というわけではないんですね。免疫の働きと言われますけれど、免疫というのは他を排除する仕組みで成り立っています。自分と自分でないものとを厳密に区別する。仏教でいうような自他不二ではなくて、自分と自分でないものを厳格に区別して、自分でないものを排除する。それをやらないと、生命体というのは成立しない、成り立たないわけです。たとえば病原菌が入って来て、自他不二ですよということで寛容にしていると、一遍に命を取られてしまう」
これは人間には何億年の歴史の原初から、他をやっつけるとか、俺とお前は違うんだという仕組みで成り立っているのでは、という問いかけだった。
これに対し、河野師は、こう答えた。
「他を排除するということは、その『他』もこちらを排除するということでしょう。ですから、お互いに排除するというところで、自他不二ではないですか。なんでも仲良くするというのが自他不二ではなくて、それぞれの個性、性質というものを認めていくことが、自他不二ということになるんではないですか」
「ウイルスの撲滅」とか、「ウイルスとの共生」が語られる昨今、対本さんはこの問題を今どう考えるのか、尋ねてみた。
「私は共生を望むが、人間同士でも現実に共生は難しい。まして目に見えず、対話にも応じてくれないウイルスと共生することは、もっと困難でしょう。しかし、ウイルスや細菌が全くいない状況を作るのが困難であれば、つまり原因を根絶できないとしても、私たちは『縁』をコントロールすることはできる」
この場合、「縁」のコントロールとは、接触を防ぎ、防護服やマスクでウイルスの侵入を極力防ぎ、抵抗力や免疫力を高めることだ。当たり前のことのように思えるが、対処手段は他の医師と同じでも、「僧医」の見立てや位置づけは、ずいぶん違うと感じた。