西洋医学中心で「僧」をどう活かす
実際に病院では、抗菌・抗ウイルス薬を使い、標準医療で対処しているし、今後ワクチン接種が始まれば、対本さん自身も率先して受けるつもりだという。では、「僧医」の「僧」の部分は、日常的にどこで活かされているのだろう。対本さんは、こう答えた。
「それは、縁ということだろうと思います」
因果律は原因と結果の法則だ。物事にはすべて原因があり、結果がある。近代の科学は実験を繰り返すことで因果関係を証明し、科学を発展させてきた。想定したAという原因の有無で、結果Bになるかどうかを調べれば、AとBは因果関係で説明できる。もちろん他の要因が結果に影響を与える可能性もあるので、他の条件はすべて同じになるよう操作して、厳密に同一環境のもとでAの有無が結果を作用するかどうかをテストする。それが同一条件の下で、他の科学者によって再現可能であれば、科学的に因果律が証明された、とみなす。もちろん科学の進歩によって、その因果律が全体のごくわずかしか説明できていなかったり、間違いだった、とわかったりする、ということもある。その意味ではあくまで、ある時代の仮説に過ぎないが、その時代の水準においては説得力のある説明だろう。
仏教も因果律を説く。だが対本さんによれば、お釈迦様が説いた因果律の特徴は、原因と結果の間に「縁」を入れることだという。日常会話で「ご縁があったら」とか、「良縁に恵まれて」といった風に使う「縁」のことだ。これは本来、間接的な原因、もしくは条件、環境を指す。
例えば畑に種を蒔く。この種は原因で、種を蒔かなければ花も咲かず、実も結ばない。だが、種を蒔いたからといって、つねに花が咲き、実を結ぶわけではない。適度な水分がなければ発芽しない。太陽の光や温度など、様々な条件が重なって初めて種は発芽し、成長して花が咲き、実を結ぶ。あるいは順調に育っても、鳥が種をついばんだり、人が花を折ったりすれば、そこで命運は尽きる。仏教でいう「縁」とは、原因が結果に結びつくまでの、こうした様々な条件や環境を指すのだという。どんなに努力しても結果が実を結ばないことはいくらでもある。それには時期が熟したり、人との機縁が働いたりといった条件が整わなければならない。
ここから仏教は「業(ごう)」あるいはカルマを説く。これも対本さんによれば、取り立てて神秘的なものではなく、「行い」の因果律を指す。いい種を蒔けばいい果実を結び、悪い種を蒔けば悪い作物ができる。これが「因果応報」であり、「自業自得」だ。もちろん、あくどいことをして栄耀栄華を楽しむ人もいれば、正直者がバカを見ることもある。だが、そこで世間を嘆くだけでは、もったいないし、先もなく後もない。
お釈迦様やイエス様と同じ程度にまで心を深めないと物事の背後や内奥にあるつながりや関係は見えてこない。心を深くするほど責任はすべて自分に帰することがわかり、今まで無駄に思えたことが、何一つ無駄ではなかったことがわかってくる。
仏教では業を三つに分ける。「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」である。
身体でつくる業は行動、口を通しての行いは言語的行為で、これはわかりやすい。暴力を加えれば傷害罪で逮捕され、公衆の面前で根もなくだれかを誹謗中傷すれば名誉棄損で訴えられる。
だが「心」でつくる行いとは、わかりにくい。心で思うことは外に表現しておらず、どれほど反社会的で、公序良俗に反することを思っても、それは処罰されず、責められもしない。お釈迦様もイエス様も一様に語っているのは、だからこそ、心の中の想念は身体や口での行いと同じくらいリアリティがあり、よくよく注意せよ、ということだった。対本さんはそう指摘する。
体の行いも、口の言葉も、表現される以前には必ず、想念やイメージとして心の中に存在する。裏を返せば、心の中にないものは、外に現れ出ることもない。だから心の思い、「心業(しんごう)」は、あらゆる行為の原因として最も重要とみなされる。
だが、どうしたらその「心」をコントロールできるのか。心はどこにあるかもわからず、往々にして、理性や意識を裏切り、頭で考えたり指示したりすることと逆の行動をとらせることもある天邪鬼だ。
それは人間の意識の下には広く深く、無意識の層があるからだ。これが仏教でいう「唯識」である。奈良の南都六宗のうち法相宗が樹立したこの考えは、眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官に意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という三つの識を加え、全体で八識を立てる。末那識と阿頼耶識が、今でいう無意識にあたる。
では、そうした無意識を抱える心をコントロールすることはできないのか。
その方法が呼吸を整えること、すなわち「坐禅」である、と対本さんはいう。呼吸と心はつながっており、呼吸を整えれば、心を整えることもできる。それが「坐禅」の修行であり、神髄でもある、と対本さんはいう。