管長から医学生に
父親は対本さんに、死の現実を経験させてくれた。一個の人格が後に遺す最大の教えの一つはその死を通して伝えられる何か、ではないか。それが、「生と死」を今後究めるべきテーマに押し上げたきっかけだった。
管長として医療関係者に講演を頼まれる機会も増え、臨終間際の患者さんに呼ばれることもあった。だが、病院では法衣をまとうことは許されず、作務衣姿で一般客としていかねばならなかった。
死とは何か。人生の意味とは何か。なぜいま自分が死ななくてはいけないのか。死の恐怖にどう立ち向かっていけばいいのか。
病床にある患者さんの実存的な苦悩や問いかけに、医師も看護師も応えてはくれない。だが僧侶は、僧侶として、生きている患者さんの枕頭でその声に耳を傾けることもできない。「生」は医療の世界に、「死」は僧侶の世界に分けられ、プロセスとしての「死」を通して見守り、寄り添う人はいない。本当は誰もが聞きたい問いなのに、「生」をつかさどる医療従事者も、「死」をつかさどる僧侶も、その問いには応えていないのではないか。
そこまで考えたとき、対本さんは、宗教が提示する「いのち」と生命科学が提示する「生命」はほんらい「身心一如」であり「心身相関」であるのなら、僧侶もまた、そのことを現場で生きた働きに変える智恵と技術が必要なのではないか、と思った。つまり、宗教と医療の橋渡しとなる、という決意だ。
そのためには、医学部に入り直して一から学ばねばならない。自分が今、始めるしかない。もし宗門の最高位にある自分が捨て身で始めれば、それは青年僧にも何らかのメッセージになってくれるのではないか。
大型書店で参考書を買いそろえ、大手予備校の衛星放送の授業を契約して受験勉強を始めた。期間は最長2年。管長としての日常の仕事に穴をあけず、仕事と受験以外は一切捨て去る。そうした誓約を自分に課したうえで得意科目に沿った帝京大学医学部に志望を絞り、合格した。
だが喜びもつかの間、高い入学金や初年度の納付金の振り込み期日が迫った。数日窮したあげく、対本さんはかつての師である和尚を京都に訪ね、恐る恐る用件を切り出した、和尚は「それは尊い」と言って即座に支援を引き受けてくれた。
医学部に入学したものの、管長を続けながら6年間も医学を学ぶのは、やはり至難だった。平日は講義を受けて土日は寺に戻り、夏休みなど長期の休暇は管長の仕事に専念する計画で半年を乗り切ったが、宗門の意向も無視することはできず、11月上旬に公式に管長を辞任し、春秋7年を過ごした佛通寺を後にした。
医師になるまでの経緯は対本さんの著書「禅僧が医師をめざす理由」(春秋社)に詳しい。
20年以上を宗教者として生き、宗門の最高位を極めた対本さんは、こうして一医学生となり、「僧医」の道を歩み始めた。45歳だった。