deathでなくdyingの死
方丈様の言葉通り、対本さんは1993年9月、38歳の最年少管長として広島県の大本山佛通寺に入山する。「管長」の職がどれほどのものか、少し説明が必要だろう。
日本の禅宗には、臨済宗のほかに道元禅師が伝えた曹洞宗、明の帰化僧・隠元禅師が開いた黄檗(おうばく)宗がある。曹洞宗は越前福井の永平寺、鶴見の総持寺を両本山とし、黄檗宗は宇治の萬福寺を本山とする。
これに対し臨済宗は14派に分かれる。それぞれに本山があって末寺を抱え、14派を束ねる総本山はない。もちろん大小の区別はあるが、管長はそれぞれの宗門の最高位であり、一派を統合する宗教的権威である。つまり、普通なら風雪数十年の山坂を超えてきた老和尚がなる職に、いまだ「青年」の面影を残す対本さんが抜擢された。
佛通寺管長といえば、戦前は広島県知事、呉の帝国海軍鎮守府長官と並び、県下ただ3人の勅任官待遇を受けたという職だ。対本さんは、入山して長老から、「昔から佛通寺管長は、『生き仏様』として尊崇される身。それにふさわしい行動をしていただきたい」と進言され、驚いたという。
だが入寺式、開山忌、年末年始行事、末寺歴訪、法話、僧堂の指導などに明け暮れるうちに、「衆生本来仏なり」という仏教の教えに立てば、だれもが「生き仏」ではないか、と達観し、傍がどう見ようとも、自分は本来の生き方を貫くしかない、と思いなすようになった。権威となることのしがらみから、身も心も、ふりほどいたということだろう。
こうして97年秋には、佛通寺開創六百年記念大法要という半世紀に一度のイベントを無事乗り切り、新しい禅道場と研修会館も建立することができた。
だがこの山場を越えてから、対本さんは、管長在職二期目に掲げるビジョンを模索し、基本的な修行の世界を踏まえつつ、何をもって社会に役立って行けるかに思いを巡らすようになった。
このころ対本さん自身にとって、最大のテーマは生と死、宗教と医療の問題に絞られつつあった。
そのテーマに行きつくきっかけは、僧堂での修行時代から始まり、全生庵での客僧生活でも続いた父親の看取りにあった。対本さんが師父と呼ぶように、父は生老病死を究める僧侶の先達であり、死に向かう自身の姿によって、後進に「死」の本質を示す存在でもあった。
道場通いの隙を縫って郷里の病院に父を見舞ううちに、対本さんは「死」が点ではなく、プロセスであることを知る。
僧侶は檀家さんが亡くなると枕経に赴く。以前は目の前のご遺体を「死」そのものと勘違いしていた。ご遺体の前では誰しも、恐怖感や不気味さを感じる。死は忌避すべきもの、禍々しいもの、できれば目を背けたいものだ。
だが、死に行く父親が見せたものは、肉体から徐々に解き放たれ、幼子のように無邪気でいきいきと目を輝かせ、次の世界に入ろうとする穏やかで調和に満ちた臨死のメッセージだった。亡骸に死をみるべきではない。臨死の姿は見送られる者から見送る者に渡されるギフト(贈り物)なのだ。こうして、対本さんは、「deathの死ではなく、dyingの死を見よう」という決意を固めるに至る。
dyingというプロセスは、肉体の死のはるか前に、闘病生活から準備が始まっている。しかもそれは「自分」にとっての死だけではなく、家族や知人など多くの人がかかわる複合的なプロセスでもある。その密度は、末期に近づくにつれ強まる。そのプロセスはたぶん、肉体の死では終わらない。遺族にとっては悲嘆の癒しの期間も続くからだ。