外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(31)僧医・対本宗訓さんと考える「生と死」

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   コロナ禍による世界の死者数は日本時間の2021年1月16日午前、200万人を超えた。日本の死者も15日現在で4433人。戦争や巨大災害を除けば、世界の人々がこれほど身近に「死」の影を意識する出来事はなかったように思う。

   僧侶として医師として、人の「生と死」を見つめ続けてきた「僧医」の対本宗訓(つしもと・そうくん)さんに話をうかがった。

  •                                 (マンガ:山井教雄)
                                    (マンガ:山井教雄)
  •                                 (マンガ:山井教雄)

世俗への執着と解脱への希求に裂かれ

   対本さんの経歴を知れば、驚く人が多いだろう。愛媛県のお寺の子に生まれた対本さんは、京都大学文学部哲学科でユング心理学などを学んだ。

   卒業後は寺を嗣ぐつもりはあまりなかった。僧侶としての父を尊敬していても、時代遅れとも映る宗門の習わしや、お檀家さん相手の気苦労を見聞きしてきたので、一時はジャーナリズムの道に進みたいと考えていた。

   ところが、宗門から、2年ほど道場で修行経験を積み、大学院で仏教や禅の研究を続けて将来は学僧として立つよう、強く勧められた。周囲の勧めではあったが、自分の中にも禅の修行に「郷愁」のような親しさを覚え、長年考え続けてきた「生と死」の問題に決着をつけたい、という思いがあったことに気づいた。

   世俗への執着と、解脱への希求に裂かれて煩悶を続けた末、1979年10月、雲水姿で京都嵯峨野にある天龍僧堂の山門を潜った。

   僧堂の志願者は最初の5日間から1週間に及ぶ入門試練を経なければ仲間入りできない。これはまず、玄関の上がり框で低頭し、不動の姿勢で入門を懇願する「庭詰(にわづめ)」から始まる。これに耐え抜けば、今度は一室に閉じ込められ、終日壁に向かって坐禅をする。部屋の戸障子は取り払われ、常に人目にさらされる。脚が痛くて動けば罵声が飛び、時には外へ引きずり出される。この「旦過詰(たんがづめ)」が3~5日間続く。

   こうしてようやく入門を許された対本さんだったが、道場に入れば道友と励まし合い、「お釈迦さんでさえ6年かかった修行だ。凡人が3年でいいわけがない」と思いなし、修行に打ち込む日々が続いた。

   臨済宗の道場では、禅修行の指導者である師家(しけ)は、禅の修行をする雲水を叱咤激励して指針を与える。その際に使われる禅問答のテーマ「公案」は、数百から1千7百ほどもあるといわれ、その全課題を終了するには15~20年もかかるといわれる。

   対本さんは僧堂在籍7、8年のころから盛んに海外に派遣されるようになり、毎年のようにドイツなど欧米に渡り、坐禅指導をするようになった。だが在籍10年で転機が訪れる。早めに僧堂を出て実社会の荒波に揉まれることを是とする天龍寺の寺風から、どこかに寄宿逗留しつつ、毎月1週間は参禅修行のために僧堂に通うよう言われた。生まれたお寺は病弱の父が引退して他の住職が就任していたため、帰る場所ではなかった。

   そこで対本さんは東京・谷中にある臨済宗国泰寺派の名刹・全生庵に「客僧」として入り、そこから毎月1週間は天龍寺に参禅に向かう生活が始まった。客僧とは、住職の下で実地の修行を兼ねた下積みをする「職員僧」ともいうべき存在だ。

   対本さんの場合、朝5時の暁鐘と共に朝課に入り、朝の坐禅会に来る人々を受け入れる。対本さんは読経後には廊下を雑巾がけし、8時前には本堂に戻って坐禅をし、その後は禅院の6か所にある「東司(とうす)」と呼ばれるトイレの掃除に取りかかる。

   禅修行では「一に作務(さむ、肉体労働)、二に看経(かんきん、読経)、三に坐禅」と言われるように、掃除、とりわけお手洗いの掃除を重んじる。浄穢(じょうえ)の念、つまり、「きれい・きたない」という観念にとらわれる心を取り払う修行でもあるからだ。

   僧堂で10年修行をしても、住職の座につかない限りは小僧扱いの実地修行の身になるのだが、毎朝16個の便器を磨くことが苦痛だったのではない。とうに住職に納まっていてもおかしくない年格好で、よその寺に寄宿して便器を磨く自分をことさらに意識することが、苦しかった。そんなときは老僧の方丈様がこう励ましてくれた。

「あんたも今はただコツコツと下積みをするがいい。土台が堅固なら将来必ず大きな家が建つ」
「決して焦ることはない。『十目の見るところ、十指の指さすところ』で、必ず天下が評価してくれるから」
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