「もう一度やりたい」世界ヘビー級王座を目指した西島洋介が、47歳で熱望する「現役復帰」

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   かつてボクシングの世界ヘビー級王座を目指していた日本人がいた。男の名は西島洋介(47)という。「西島洋介山」のリングネームで米国を主戦場とし、マイナー団体ながらWBF世界クルーザー王座を獲得した。2003年7月の試合を最後にボクシング界から姿を消した西島氏は、いまもなお現役にこだわり続けている。

   J-CASTニュース編集部は、47歳になった西島氏の「今」に迫った。

  • 西島氏(左)とマネジャーのアンナさん
    西島氏(左)とマネジャーのアンナさん
  • 1997年にはWBF世界クルーザー級王座に(写真:AP/アフロ)
    1997年にはWBF世界クルーザー級王座に(写真:AP/アフロ)
  • 西島氏(左)とマネジャーのアンナさん
  • 1997年にはWBF世界クルーザー級王座に(写真:AP/アフロ)

「あれは会長が私を売り出すために...」

   西島氏といえば現役時代、「宇宙パンチ」や「手裏剣パンチ」などユニークな話題を振りまいたことで知られる。ジムに入門したいきさつも興味を引くもので、オサムジムの渡辺治会長(故人)が路上でいきなり体格の良い西島氏に声をかけ、ヘビー級ボクサーに育成すべくスカウトしたというのが定説となっている。だが、西島氏は入門のいきさつについて、この定説をやんわりと否定した。

「あれは会長が私を売り出すために語ったもので事実とは異なります。でも、会長が私のためにしてくれたことですし、当時は否定することはしませんでした」

   西島氏は世界ヘビー級統一王者マイク・タイソンに憧れ、中学生の時にボクサーを志した。ボクシングのジムに入門するにあたって自身のなかでひとつの目標を掲げ、体重が100キロを超えたら入門するつもりだったという。体重はなかなか増えず、目指していた100キロには届かなかったが西島氏はオサムジムの門をたたいた。そこで応対した渡辺会長は、西島氏の入門を一度、断ったという。

米国遠征で外れた「心のリミッター」

「ジムに入ってヘビー級でやりたいといったのですが、会長に『日本にはヘビー級はないからやめたほうがいい』と言われ、入門を断られました。それでもどうしてもボクサーになりたかったので、もう一度、ジムに行ってお願いしました。それでようやく会長が折れて、入門が許されたのです」

   ヘビー級の世界王者を目指してプロデビューしたものの、当時の西島氏は体が出来ておらず、ミドル級(72.57キロ以下)の選手とスパーリングをやっては倒される日々が続いたという。ジムでは委縮するあまり自分のペースでトレーニングが出来ず、伸び悩んでいた。そんな西島氏の転機となったのが米国遠征だった。

「プロ2戦目を終えたあたりだった思います。会長がお金をやりくりしてくれて私をアメリカに行かせてくれました。当時はジムの経営が苦しかったと思いますので感謝しています」

   米国のジムにはヘビー級の選手が多く、練習相手に事欠かなかったという。日本のジムでは自分らしさを出せなかった西島氏だったが、米国のジムでトレーニングを積んでいく過程で「心のリミッター」が外れたという。誰に遠慮することなくサンドバッグをたたき、スパーリングでも遠慮はしなかった。約1カ月の短期間遠征で飛躍的に成長した。

米国では世界的トレーナーと契約するも...

   米国での生活は西島氏に合っていたという。米国遠征後は、試合のたびに日本と米国を往復した。95年2月には当時、日本では非公認だったNABO北米クルーザー級王座を獲得。その後、OPBF東洋太平洋クルーザー級王座、WBF世界クルーザー級王座を獲得し、西島氏は本格的に米国進出を考えるようになった。

   活動の拠点を米国に移したいと願う西島氏に対し、渡辺会長は反対したという。両者の意見は対立したまま平行線をたどり、落としどころを見出せぬまま西島氏がジムを飛び出すような形で単身渡米した。米国では貯金を切り崩しながらの生活が続き、しばらくしてから夫人と息子が渡米し家族3人の暮らしが始まった。

   米国での暮らしは手探り状態だった。日本のジム制度とは異なり、米国では自らマネジャーやトレーナーと契約しなければならない。西島氏は米国在住の日本人マネジャーを通してフレディ・ローチ氏とトレーナー契約を結んだ。ローチ氏はマニー・パッキャオ(フィリピン)やオスカー・デラホーヤ(米国)のトレーナーとして知られ、業界では世界的評価を受けている。

   米国に渡ってからは度重なる両肘の負傷に悩まされた。両肘に爆弾を抱え、痛みをごまかしながらトレーニングを積んでいたが、肘痛の影響でコンスタントに試合を組むことが出来なかった。しだいにスポンサーは離れていき、それでも世界王者を目指して日本食レストランでバイトをしながらジムに通った。

   そして2004年に両肘の手術を受けるため帰国。両肘が完治すれば再び米国に戻ってリングに上がるつもりだったが、ついにその時は訪れなかった。その後、他の格闘技団体のリングに上がるも西島氏の心は満たされなかった。

「本当に和解したかったと思っています」

   世界ヘビー級王座獲得を目指し日本を飛び出してから22年の年月が経った。喧嘩別れのような形で袂を分かつことになった渡辺会長は2020年8月にこの世を去った。82歳だった。西島氏は「本当に和解したかったと思っています」と声を詰まらせ、こう続けた。

「あの時はアメリカに行くかどうか本当に迷いました。今でも正直、あの時あれで良かったのかと思う時がある。渡辺会長ともっと話し合うべきだったのではと。当時、会長と話し合う機会は何度かあったのですが...。あの時は強引に行くしかなかった。ただ、あれで本当に良かったのか。今でも思いますね」

   西島氏は現在、東京・西新宿にある格闘技ジム「ヒデズ・キック」でトレーナーとして指導にあたるかたわら、千葉県松戸市にあるスポーツバーを経営しているという。また、タレントでマネジャーのアンナさんのサポートもあり数カ月に一度のペースで格闘技イベントに参加し、エキシビションマッチのリングに上がっている。

   西島氏の憧れだった元ヘビー級統一王者マイク・タイソン氏は、2020年11月29日にエキシビションマッチのリングに上がり、ロイ・ジョーンズJr氏とグローブを交えた。現役にこだわりをみせる西島氏の目に54歳のタイソン氏はどのように映ったのだろうか。

「私が24歳の時でも今のタイソンには勝てません」

「タイソンは努力家で、ジョーンズは天才です。私はタイソンの全盛期を知っていますし、ジョーンズもみている。タイソンはよくあそこまで絞ったという感じです。衰えてはいますがやはり強い。50代の動きではないですね。私が24歳の時でも今のタイソンには勝てませんね」

   現在、日本のボクシング界はWBA、IBF世界バンタム級王者・井上尚弥(大橋)がけん引し、ボクシングの本場ラスベガスに本格進出している。米国で様々な経験をしたという西島氏は、井上の存在をどのようにとらえているのか。井上の試合をよく見ているという西島氏は次のように語った。

「井上選手の無敵ぶりは昔のタイソンみたいですね。当時のタイソンは強すぎて相手がいなかった。井上選手もそんな感じに見えます。当てカンがよく、スピードもある。何が一番すごいかといえばあのパンチ力ですね。井上選手のパンチが当たればみなひっくり返る。まるでタイソンみたいに。見ていて負ける気がしないし、安心して見ることが出来る。本当のスーパースターなのでラスベガスのリングが良く似合う。私なんかとは注目度が全然違いますから」

「ベルトを取って息子にあげたい」

   来年の5月に48歳となる西島氏。現行のルールでは公式戦のリングに上がることは不可能だが、それでももう一度、リングに上がりたいという。後進の指導に当たるかたわらで、自身のトレーニングも継続して行っている。

「私はNABO、OPBF、WBFの3本のベルトを持っていました。あともう1本、日本のベルトがほしい。ベルトを取って息子にあげたい。年齢的にライセンスを取得することが無理なのは分かっていますが、本気でリングに上がりたいと思っています。もう一度やりたい。日本ヘビー級タイトルマッチを」

   国内唯一のヘビー級ボクサーとしてプロデビューしてから28年。ボクサー「西島洋介」はいまだ燃え尽きていない。

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