「もう一度やりたい」世界ヘビー級王座を目指した西島洋介が、47歳で熱望する「現役復帰」

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米国では世界的トレーナーと契約するも...

   米国での生活は西島氏に合っていたという。米国遠征後は、試合のたびに日本と米国を往復した。95年2月には当時、日本では非公認だったNABO北米クルーザー級王座を獲得。その後、OPBF東洋太平洋クルーザー級王座、WBF世界クルーザー級王座を獲得し、西島氏は本格的に米国進出を考えるようになった。

   活動の拠点を米国に移したいと願う西島氏に対し、渡辺会長は反対したという。両者の意見は対立したまま平行線をたどり、落としどころを見出せぬまま西島氏がジムを飛び出すような形で単身渡米した。米国では貯金を切り崩しながらの生活が続き、しばらくしてから夫人と息子が渡米し家族3人の暮らしが始まった。

   米国での暮らしは手探り状態だった。日本のジム制度とは異なり、米国では自らマネジャーやトレーナーと契約しなければならない。西島氏は米国在住の日本人マネジャーを通してフレディ・ローチ氏とトレーナー契約を結んだ。ローチ氏はマニー・パッキャオ(フィリピン)やオスカー・デラホーヤ(米国)のトレーナーとして知られ、業界では世界的評価を受けている。

   米国に渡ってからは度重なる両肘の負傷に悩まされた。両肘に爆弾を抱え、痛みをごまかしながらトレーニングを積んでいたが、肘痛の影響でコンスタントに試合を組むことが出来なかった。しだいにスポンサーは離れていき、それでも世界王者を目指して日本食レストランでバイトをしながらジムに通った。

   そして2004年に両肘の手術を受けるため帰国。両肘が完治すれば再び米国に戻ってリングに上がるつもりだったが、ついにその時は訪れなかった。その後、他の格闘技団体のリングに上がるも西島氏の心は満たされなかった。

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