「歴史の知恵」
ここまで磯田さんにお話を伺って、磯田さんがなぜ4月の時点でこれほど正確な行程表を作成できたのか、私なりに理解できたような気がした。
磯田さんが師事した速水氏は、歴史人口学の手法を日本で確立し、膨大なデータをもとに実証的にある時期、ある地域の社会を分析し、そこから動態的な歴史像を再構築した。これは権勢を振るった天皇、貴族、武人、商人ら支配者・有力者の盛衰に焦点を合わせた歴史学や、制度やシステムの変遷を通じて社会を分析する手法とも違う。むしろ、無名の人々の生死に着目して、手堅い史実から彼らがどう歴史を動かしてきたのかを探る学なのではなかったろうか。
個人にとって、最も重要なことと言えば、自らの生死であり、家族や知人の生死だろう。為政者にとって、無名の人々の生死は、統計上に表れる数字に過ぎないのかもしれないが、庶民にとっては最も厳粛なイベントだ。
歴史を数量やデータで把握するといえば、そこには近代以降の統計学に付きまとう無機的、機械的なイメージが忍び込みやすい。
だが全国各地を隈なく歩き回って宗門人別帳からデータを収集する研究者にとって、そのデータは単なる数値ではない。その土地、その村の風景を眺め、地域の奥に踏み入って、複雑微妙な人間関係を潜り抜けてようやく手に入る史料は、むしろ長く埋もれ、後世の人々にも忘れ去れられた過去なのだろう。当然、そのデータをどう解釈し、再構成するかをめぐって、歴史家は、自生する固有種を調べる植物学者のように、土壌や環境、その分布、外来種との干渉や相克などを考慮するに違いない。つまり、生きた過去の歴史を復元する作業とは、庶民の過去を忘却から救いだし、それを多重多層に重ねて歴史像を構築する探究なのだろう。
そこまで考えれば、速水氏が後年、なぜスペイン風邪の研究に没頭したのかも、理解できるような気がする。それは「忘れられた」のである。
大きな震災・津波や火山噴火、洪水は最初は神話や伝承、のちには歴史記述として残されており、災害考古学や災害歴史学の成果が蓄積されてきた。2012年に刊行された「日本歴史災害事典」(北原糸子・松浦律子・木村玲欧編、吉川弘文館)はその現時点での集大成であり、歴史災害については864年の富士山貞観噴火から2011年の東日本大震災に至るまで、大きな災害が個別に多角的に報告されている。だが、海難事故やデパート大火すら網羅するこの本に、スペイン風邪などの感染症は出てこない。
その理由はなぜだろうか。多くの自然災害は発災時の被害が最大で、その後、徐々に被害が減衰する経過をたどる。被害は見た目に歴然としており、被害が甚大かどうかは一目でわかる。つまり、いかに悲惨であるかが「出来事」として記録されやすい。
だが、感染症は目に見えない。それは波状的に繰り返し襲いかかり、最初の感染が最大の被害をもたらすとは限らない。むしろすでに感染して免疫を獲得した人が、助かったり、感染社会を下支えしたりする。つまり、「出来事」を記述する従来の歴史学の手法では、その規模や変遷を追うことが難しい。しかも純然たる自然災害と違って、感染症は、為政者や専門家の対策の是非や、それを社会のアクターや構成員がどこまで受け入れ、実行するのかという実効性が複雑に絡んでくる。自然と人為が分かちがたく絡み合う複合現象なのである。一筋縄ではいかない。
それがおそらくは、「スペイン風邪」や大きな感染症が歴史に埋もれ、私たちの集合記憶からも欠けた理由だったのではないだろうか。おそらく速水氏はその「歴史の空白」に気づき、その追跡に渾身の力を振り絞ったのではないだろうか。
それは通常の病気と同じように、個々人の生死を分かつ「運命」や「不幸」とみなされ、「災害」とは明確に認識されてこなかった。私たちは過ぎ去った疫病を、たんに忘れただけなのに、それを「医療技術の進歩」や「文明の勝利」と思い込んでいた。
歴史や集合記憶から欠落しているということは、先人が対処した「歴史の知恵」も埋もれてしまったことにほかならない。
磯田さんは著書の「はじめに」で、次のように書いている。
「現今は、歴史教科書には出てこない病気やウイルスや患者が主人公になった『歴史の書物』が書かれ、読まれることも、必要であろうと思います。人間は誰しも病気になります。当たり前ですが、死なない人はいません。であれば、健康や不健康の視点からみた歴史は誰にとっても他人事ではなく、大切になります」こうした視点から磯田さんはこの本の後半で、当時の天皇や総理大臣、文豪の記録も患者の一人の史料として扱い、京都の女学生の「感染日記」と並列する。どのように病気になり、どういう場合に助かり、どういう場合に命を落としたのか。「患者史」という新たなジャンルを切り拓く試みだ。
速水氏の遺志は、間違いなく、ここに受け継がれている、と思う。