外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(29) 米国はバイデン政権下で分断を克服できるか

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二転三転した2大政党の勢力範囲

   私たちは米国の2大政党である共和党と民主党が、それぞれ州ごとに堅い地盤を持っていることを知っている。シンボルカラーで共和党の赤、民主党の青で米国の地図を塗り分ければ、東西両海岸が青、南北にわたる内陸中央部や南部が赤になる。毎回の大統領選でこの大きな勢力範囲は安定しており、選挙のたびに支持政党が変わる「スイング・ステート」によって勝敗が変わる。当然ながら、時代や地域の経済事情などによって、「スイング・ステート」は変わる。私はもともと、この2大政党の分布は歴史や伝統に根差し、昔から変わっていない、と信じ込んでいた。

   ところが、古矢さんによると、それは誤りなのだという。

   19世紀末は「政党の時代」と呼ばれたことはすでに紹介した。この当時は、南北合わせて50万人以上の死者を出した南北戦争(1861~1865年)の影を引き摺る時代でもあった。北部23州が共和党のリンカーン大統領の下に結束した北軍は南軍を圧倒し、奴隷制は廃止され、1870年の憲法修正15条で黒人にも投票権が与えられた。北軍は、戦後1877年に引き上げるまで南部11州を軍事占領下に置いた。

   しかし北軍が去ると、南部の白人勢力は「ジム・クロウ法」など、黒人の投票を制限する様々な制限を加えた。その中心になったのが民主党だった。こうして共和党・民主党はそれぞれ支持層を掘り起こし、2大政党による激しい選挙戦が繰り広げられた。投票率が上がったのはそのためだ。つまり北部を中心とする多くの州は共和党、南部は民主党というのが当時の勢力範囲だった。

   その構図が劇的に変わったのが1932年の大統領選だ。29年のウォール・ストリート株式暴落に始まる世界恐慌に対し、政府の積極介入を唱える「ニューディール」政策を掲げた民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領が選ばれ、36年には約60%の得票率で圧勝し、再選された。それまで優勢だった共和党の政権では、もう恐慌には対処できない。米国の有権者は、労働者の4人に1人が失業するという苦境からの脱却を民主党に託し、それまで南部が拠点だった民主党は都市部を中心に北部にも支持基盤を広げた。

   ルーズベルトは戦時の1944年まで異例の4選を果たし、その死去後に政権を引き継いだトルーマンが第2次大戦を勝利に導いた。

   トルーマンの後を継いだのは共和党のドワイト・アイゼンハワーだった。彼は第2次大戦中、欧州における連合国軍最高司令官を務め、民主党支持者にも受け入れられる国民的ヒーローだった。だがこの時にも共和党は、民主党の牙城である南部には浸透できなかった。

   次に両党の勢力分布が大きく変わるのは、1960年に誕生したJ・F・ケネディ政権以降だ。1955年のモントゴメリー・バス・ボイコット事件などで始まる人種差別反対運動は南部などで激しい抗議活動を展開し、J・F・ケネディと弟の司法長官ロバート兄弟は、公民権法制定に向けて舵を切ろうとした。JFKは1963年にダラスで凶弾に倒れるが、政権を引き継いだリンドン・ジョンソンは、南部テキサス州の保守的な政治家であったにもかかわらず、翌年、公民権法を成立させる。だが、このことが、従来は南部の強固な地盤を支えてきた民主党の保守派には「裏切り」と映った。1964年選挙で共和党候補になったアリゾナ州出身のバリー・ゴールドウォーターは、反公民権法を打ち出し、南部白人保守層の取り込みを図った。南部は、これをきっかけとして大きく共和党に傾き、長く「堅固なる南部(Solid South)」と謳われた地域から、二党化し、さらには共和党の牙城へと変貌してゆく。つまり、南北戦争から100年をかけて、「民主党の南部」は「共和党の南部」に変わったことになる。

   二転三転した勢力範囲は、アメリカの民主主義がいかにダイナミズムに満ちたものであるかを物語っている。そう考えれば、今も米国には、巨大な地殻変動を起こす潜在的な可能性がある、と思わざるをえない。

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