メディアがだんまりをきめこんでいる間に、読者は、その他の場所で真実に「近いもの」を感じとっている【ネットメディア時評】

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「そこから新聞と読者との間の乖離がはじまる」

   新聞の声が、読者に「届かなくなる」ことへの危機感は、今に始まった話ではない。約40年前の本に、こんな一節がある。

新聞がだんまりをきめこんでいる間に、読者は、その他のマスメディアで真実に近いものを感じとっている。そこから新聞と読者との間の乖離がはじまる」(『続 現代ジャーナリズム入門 夜郎自大』)

   こう書いたのは、故・扇谷正造氏(1913~1992)だ。朝日新聞で戦前から記者として働き、「週刊朝日」の名編集長として知られた。上記のフレーズは、芽生えつつあった「新聞不信」への、強い危機感を語る中での言葉だ。

   扇谷氏の時点では、「真実に近いもの」に読者が接するのは、テレビなどだっただろう。そして今であれば、ネットを通じて、より多くの「真実に近いもの」が氾濫している。

   それ自体は、読者にとって良いことだ。ただ、問題は「近い」というのがどれくらい近いか。「駅直結」とか言いつつ、「直結の停留所からバスで12分」だとちょっと困る。「コロナはイルミナティの陰謀! 存在しない!」みたいな「真実に近いもの」をみんなが信じ込むのは、本当に困る。

   「だんまりをきめこんで」はいられない。なんとしてでも読者との接点を作り続けなくては。そのためには、記者の「個性」だって武器にする――というポッドキャストチーム。読者に好かれよう、などというのは報道の堕落を招く。ジャーナリズムは嫌われてでも、あくまで「正しさ」を貫くべき――という反発派。

   さて、どっちが正解なのか。新聞に限らず、僕のようなネットニュースの人間にも、他人事ではない問題だ。でも、今の僕には答えがない。扇谷氏が引いている、仏文学者・評論家の故・桑原武夫氏の言葉で記事を締めくくっておく。

「ジャーナリストは、よき意味における日和見主義者である」
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