分散参拝で話題の「初詣」「除夜の鐘」 伝統行事を振り返ると...意外に歴史は浅かった!?

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   新型コロナ対策として、2021年の初詣を分散する議論が浮上し始めた。混雑を避け、元旦からの正月三が日にこだわらない分散参拝が寺社や行政から呼びかけられている。

   伝統行事にも変化が生まれそうだが、日本の伝統のように思っている初詣や大晦日の除夜の鐘は、明治以降の近代に「新しく」作られ定着した習俗であったという。伝統的と思われている習慣の歴史も意外と新しく、昨今のコロナ蔓延のようなきっかけで変わる可能性がある。

  • 初詣の歴史は意外と新しい(写真は川崎大師)
    初詣の歴史は意外と新しい(写真は川崎大師)
  • 初詣の歴史は意外と新しい(写真は川崎大師)

「新年初めて詣でる日」はバラバラだった

   大晦日には除夜の鐘を聞き、元旦には未明から寺社へ初詣――これが現代日本の年越しの風物詩だ。しかし、これは明治以降に定着したものだと複数の研究者が指摘している。神奈川大学の平山昇准教授は、自著「初詣の社会史」(東京大学出版会)、「鉄道が変えた社寺参詣」(交通新聞社新書)でこの歴史を詳述している。これらの文献に加え、J-CASTニュースが行った平山さんへの取材とともに紐解こう。

   平山さんの研究によればまず、江戸時代までの年越しは現代とまるで違った。全国どこでも元日に参拝するのではなく、信仰する寺社のその年初の縁日、いわゆる初縁日に参拝する習慣があった。旧暦では日ごとにも干支が当てられ、祭神によって縁のある干支も異なる。新年初の卯の日に詣でるなら初卯詣、寅の日なら初寅詣、辰の日なら初辰詣というように、祭神にゆかりのある日に詣でればご利益があるとされた。

   もう一つ、明治中期までは恵方参りという習慣もあった。正月にその年の福を司る歳徳神がいる方角に詣でるもので、寅卯・巳午・亥子・申酉の方角が年ごとにあてられる。元旦でなければならないものではなく、関西では節分の恵方参りが盛んであった。縁日も恵方も完全に廃れたわけではなく、現代でもネットなどで検索すれば今年の恵方などは分かる。

   この習慣を変えたのが、1872年に日本で初開業した鉄道だったと平山さんは論じてきた。初期の鉄道に旅客需要はほとんどなく、民衆にとって「遊園地のアトラクションのような乗り物」(平山さん)だった。この鉄道が、遠方の寺社にも人を集め始める。「鉄道が変えた社寺参詣」によれば、川崎大師や成田山新勝寺など、都市の郊外にある寺社が行楽地のように注目されるようになり、参拝のニーズが生まれた。同時に明治維新と近代化で、現代日本人のように西洋由来のカレンダーに従って生活する人々が増えてくる。1872年の新暦導入以後、旧暦に基づく祭日は新暦の休日にあてはまるとは限らない。旧暦由来の生活が次第に廃れていき、「たくさんの日本人が揃って休めるのが正月三が日くらいになりました」(平山さん)となり、ばらばらだった正月の参拝が、三が日に集中するようになった。

   そして明治から大正にかけて、鉄道会社がこぞって沿線の寺社に乗客誘致合戦を始める。とりわけ複数の路線が伸びた成田山新勝寺や川崎大師へは、国鉄・私鉄がどんどん広告を出し、臨時列車を増発したために参拝客が増えていった。

戦前は鉄道で、戦後は車で

   本来恵方参りの習慣にならうなら毎年参拝先は異なるはずだが、それでは困る鉄道会社は恵方に関係なく沿線の寺社に乗客を呼び込もうとした。例えば京阪電鉄では1914年の正月、大阪からみてこの年の恵方に当たる男山八幡宮(石清水八幡宮)への参拝を呼び込む広告を出したが、翌1915年には「恵方以上ニ神威大ナル男山八幡宮厄除大祭」という広告を打っていた。恵方であろうとなかろうと参拝の足に乗ってくれればいい、というのが本音のようで、鉄道各社の宣伝合戦のうちに、どこが恵方かは関係なく電車で初詣に行けばいい、という風潮になった。

   こうして江戸時代の習俗が徐々に失われ、元旦に参拝する初詣の習慣が定着していくが、平山さんは関東大震災と明治神宮も決定打になったと論じる。関東大震災で下町が壊滅し、東京西部の開発が進むと古い寺社の廃絶・移転も進んだ。明治神宮は1920年の創建だが、国民に敬愛された明治天皇の威光は健在で、原宿駅のすぐ近くというアクセスのよさもあり、当時から多くの参拝客を集めていたそうだ。現代の初詣参拝客上位の常連である明治神宮・川崎大師・成田山は戦前で既に初詣の定番となり、人々が集まる構図が完成されていたのである。

   初詣は特に元日でなければならない、との古来からのいわれはなく、近代に鉄道と寺社の都合によい、俗な理由で定着していったといえる。

   ちなみに大晦日の終夜運転も鉄道の競争で始まったと平山さんは指摘する。成田山にアクセスする総武本線・成田線に国鉄が1928年正月(1927年の大晦日)に臨時列車を走らせたのが始まりで、競合する京成電鉄も追随、他社の路線にも普及していった。

   戦後も初詣の習慣が続いた理由には、別の要因も指摘されている。モータリゼーションで自家用車がポピュラーになると、寺社はしばしば交通安全を祈願する「自動車祈祷殿」を建てた。川崎大師にも成田山にもこの自動車祈祷殿が建っている。交通安全の参拝も年始に多く、正月に寺社に詣でる習慣が継続されたと推測する論もある(畑中章宏「死者の民主主義」)。

除夜の鐘はラジオから

   「初詣を作ったのが鉄道なら、除夜の鐘はラジオが作りました」とも平山さんは論じる。除夜の鐘も明治時代には定着しておらず、忘れられた習慣であった。そもそも江戸~明治期には現代のサラリーマンなどおらず、都市の住民は自営の商売人として生計を立てていた。彼らにとって大晦日は1年の商売の支払いに追われる日で、家でくつろいで鐘を聞く余裕などなかった。

   それが1925年にラジオ放送が始まると、全国に放送できて年越しを実感させるイベントとして、除夜の鐘に目がつけられた。1927年の大晦日にはスタジオに鐘を持ち込んで108回鳴らして放送され、さらに1930年代には各地からの中継で放送されるようになったと平山さんは話した。1930年代後半には朝鮮や上海からも中継がなされ、日本国民が年越しの風物詩として共有していく。戦後も「ゆく年くる年」がラジオ・テレビで放送されたことで「除夜の鐘を聞き、未明から初詣に向かう」習慣が当たり前になった。除夜の鐘もまた、電波に乗せて全国に放送できる近代メディアなくしては年末の風物詩にはなり得なかったし、年越しイベントに定着した。

   コロナ対策として元日や三が日にこだわらず分散参拝を、となれば、せっかくなので近代以前の年中行事を見直してみるのもよいかもしれない。明治以降の新暦に基づくカレンダーからは消えたものの、寺社では今も旧暦に基づいた祭礼を続けている。広義の正月(松の内)が明けても、地域の祭神に縁のある日を見つけて詣でるのも、日本文化の再発見につながるだろう。

(J-CASTニュース編集部 大宮高史)

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