南原繁の「抵抗」
こうした南原繁の生き方について、「夏の坂道」を書いた村木さんは次のように言う。
「彼に最も大きな影響を与えたのは、母親きくさんを除けば、新渡戸稲造と内村鑑三だったと思う。何を考え、どう行動するかを決める場合も、その根底にある基準を与えたのは二人だったのではないか。南原先生は、ギリシャ哲学やドイツ哲学を究め、世界に通用する学者になったが、もっと奥深くにある信条を培ったのは新渡戸と内村だと思います」
南原は軍部に正面から抵抗したわけではない。それを微温的だったとか、十分な抵抗をしなかったと批判するのはたやすい。だが、あっさりと職を辞すのではなく、理念と同時に現実をリアルに把握しながら、踏みとどまったところに、村木さんは注目する。
「自分が辞めたら、自分がいなくなったらどうなるかを、常に冷静に見定めた人だったように思います。美濃部達吉が攻撃されたあと、『学問の自由』をどう守るかを真剣に考え、丸山ら次世代を育て、見事に責任を果たし続けた。彼は大日本帝国憲法公布の年に生まれ、明治憲法と共に歩んだ人ですが、『学問の自由』がいかに大事かを痛感し、最後まで踏みとどまって信念を貫いた。戦前・戦後を通じて、これほど価値観がぶれなかった人も少ない、と思います」
今のこの時期に南原の生き方に注目した理由について村木さんは、当時、大学が当局や世論から批判・攻撃され、「言っても詮無い」という無力感が学内にも漂うなかで、南原が自分の無力を噛みしめながらも「これだけは曲げられない」という信念を貫き、ここぞという出番が来るまで次世代の若手を育てたことにある、という。
「この間、公文書が消されたり、法解釈が捻じ曲げられたりと、戦前や戦時中を思わせる出来事が起きました。憲法の条文は変わっていないけれど、自由や人権など、器に盛られた中身は少しずつ減ってきているように思う。ある時気づいたら、その自由がすっかり狭められ、身動きができなくなることはないのか。すぐに変わるわけではないにせよ、時代はどんどん変わっていく。一人一人が頑張っても無力だな、と思うような今だからこそ、南原先生の生き方を振り返ってほしい、と思うのです」
村木さんの著書を読み、その話を伺いながら、深く同感した。
詰まるところ日本の大学は、「学問の自由」を守り切れず、南原らの終戦工作も功を奏しなかった。そこだけを見れば、南原らの抵抗は時勢に押し切られ、無力だったように見える。
だが、南原らがいなければ、「学問の自由」はいち早く突破され、戦後の礎を築く次世代も現れなかっただろう。南原らがいなければ、「学問の自由」が奪われる過程そのものが忘却され、隠されたままになったのかもしれない。
「学問の自由」が失われるのは、軍部や独裁の強権が発動する場合だけとは限らない。当局は言論を誘導して世論を味方につけ、学内ではその世論に呼応して、当局になびく勢力が現れる。当局はその対立を利用して、批判勢力を学外に追放し、「学問の自由」は内側から瓦解する。いわば「自滅」を待つことが最も巧妙な言論弾圧であることを、戦前・戦時中の歴史は教えてくれているように思う。
かつて丸山真男は、ドイツの牧師マルティン・ニーメラーの生き方を紹介した本から、牧師が語ったという次の言葉を翻訳して引用した(新装版『現代政治の思想と行動』=未來社所収「現代における人間と政治」)。
ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
それは、まさに南原や丸山が身を持って体験した過去だったろう。こうした警告を踏まえ、丸山は、「端緒に抵抗せよ」と「結末を考えよ」という二つの原則を強調している。
今回のコロナ禍のように、同調圧力が働きがちな危機の時代には、真綿で首を絞めるような「自粛」要請が、個々の「萎縮」を招きかねない危うさがある。時代の転換点は、その時点ではわからず、後で振り返らなければ見えないことが多い。
誰か他人のためではなく、自らのためだ。
「学問の自由」が失われることがないように、つねに目を凝らし、耳を澄ませていたいと思った。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。