丸山真男と津田左右吉
南原は1939(昭和14)年3月、東大法学部に東洋思想史の講座を設け、秋に開講した。西洋の理論・学問以外に、広く東洋思想を研究するべきだという持論に加え、文学部にできた国体明徴講座「日本思想史」に対抗する狙いがあった。
新講座を誰に担当させるか。南原の念頭にあったのは、その3年前の暮れに「政治学史を勉強したい」と相談に来た丸山真男だった。「今、学者としてやっていくのは難しい」と言って一度は帰らせたが、二度目に来た丸山に南原は、「日本のことをやってみないか」と誘った。日本精神や皇道が盛んに喧伝されているが、科学的な研究はなされていない。歪曲された議論を批判するには、同じ土俵で専門的に研究する人が必要という考えからだ。丸山は助手として残り、将来は東洋思想史講座を任せる心づもりだった。
だが丸山が一人前になるまで、誰かに講師を頼まねばならなかった。南原が白羽の矢を立てたのは、「文学に現はれたる我が国民思想の研究」など、古事記や神代史の文献批判で知られる早稲田大の津田左右吉教授だった。だが、国体論が隆盛する当時の学界において、リベラルな津田は傍流であり、異端でもあった。
始まった講義は当初はスムースに進んだが、学生右翼団体が最終講義の後に津田を質問攻めにし、次から次に排撃する事態になった。聴いていた丸山は講壇の前に立って「今のような質問は学問的な質問とは認められない」と制し、津田を抱えるように別室に連れて行った。だが学生たちはその部屋にも入り込んで3時間以上、つるし上げを続け、丸山は「先生、こんなファナティックな人たちと話してもしょうがないから、帰りましょう」と言って強引に津田を外に連れ出した。
翌日、その最終講義のことが新聞に載り、蓑田胸喜らの津田総攻撃が始まった。1940年に内務省は津田の主要4著を発禁処分にし、津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴された。同法第26条の皇室の尊厳を冒涜する書に当たる、という理由だった。
南原は裁判所への無罪嘆願の上申書を書き、丸山は署名集めに走り回った。1942(昭和17)年、津田に禁錮3か月、岩波に2か月の執行猶予付き判決が出た。検察側が控訴したが、2年後に時効による免訴となった。