ファッショと迎合の時代
2・26事件を機に、日本はファッショの時代に雪崩れ込む。この時期を回顧した南原の「聞き書」に、こうある。
南原 滝川事件で外濠が埋められ、美濃部事件で内濠も埋められた。大学はひっそりしていた。この事件の時、敢然と軍部を批判したのは河合栄次郎君ただ一人だった。よく頑張ったね。
丸山(真男) よく頑張ったと学生も感激しました。しかし、世は滔々としてファッショ時代に突入しますね。
南原 六月になっても戒厳令は解かれない。七月には首謀者十七人の死刑が発表になった。何ともやりきれない気分だった。大学の中にもだんだん時流に迎合するものが出てくる。その犠牲になったのが矢内原忠雄君だった。大内兵衛君はこれを土方・田辺・本位田君による矢内原教授大学追放と呼ぶ。
ここに出てくる河合栄次郎の批判とは、36年3月9日号の「帝国大学新聞」に掲載された「二・二六事件の批判」を指す。また、大内兵衛が追放したと呼ぶのは経済学部で河合や大内と対立した国家主義(革新)派の土方成美、田辺忠男、本位田祥男教授を指している。
「京大事件」によって外濠、「天皇機関説事件」によって内濠を埋められた「大学の自治」や「学問の自由」は、軍部による直接の弾圧によらずとも、国家主義や軍国主義の時流に迎合する内部の離反によって自壊の道を歩むことになる。
盧溝橋事件が起きて日本が対中全面戦争に入った1937年、土方成美経済学部長は、矢内原忠雄が中央公論に寄せた「国家の理想」を問題視し、批判した。この時は大内兵衛らの奔走で事なきをえた。だが、矢内原がある宗教集会で「今日は理想を失った日本の葬りの日です」と発言したことが、当局の耳に入り、これが再度、教授会で槍玉にあがった。矢内原は東大を追われる形で辞任した。
小説「夏の坂道」は当時の経済学部の力関係をこう描いている。
経済学部は学部長の土方成美が率いる国家主義派と大内兵衛の左派、さらに河合栄次郎の自由主義派と、大きく分かれて論争が続いていた。矢内原はそのどれに与するというのでもないが、日本の政策を批判していたので土方とは対立があった」
矢内原が東大を去って間もない38年2月1日、全国の教授グループが治安維持法違反で検挙された。東大の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、東北大の宇野弘蔵、法政大の美濃部亮吉らだ。治安維持法の対象を共産党以外にも拡大し、労農派らを一斉に検挙した前年からの「人民戦線事件」第2波である。
矢内原が辞め、大内が逮捕された。最後に残った自由主義者の河合栄次郎にも同じ月、災難が降りかかる。内務省は「ファシズム批判」など河合の著書4冊を発禁処分とし、東大経済学部では河合の処遇をめぐって河合派と土方派が激しく対立した。
健康上の理由から辞任した長与又郎に代わって総長になった海軍の技術中将・平賀譲は、学内に諮らず、河合を「学説表現の欠格」、土方を「綱紀の紊乱」という理由で休職処分とすることを、文部大臣の荒木貞夫に具申した。喧嘩両成敗のこの措置は「平賀粛学」の名で呼ばれた。
だがこの処分申請は経済学部教授会にも知らされておらず、「大学の自治」を自ら放棄するようなものだった。河合派、土方派の教官らは一斉に抗議の辞意を表明し、経済学部は文字通り瓦解した。
小説「夏の坂道」は、当時の法学部長の田中耕太郎と、南原の次のような会話を通して、大学が置かれた苦境を描き出している。ちなみに田中は平賀を総長に推薦し、「平賀粛学」を通して自治を守ろうとする立場だった。
思想が異なる両者を同時に追い出すだけでも問題なのに、河合は自由主義者だから切られ、土方は派閥を作った廉で休職というのでは議論にもなっていない。そう詰め寄る南原に、田中が答える。
「だから待っていられないんですよ。河合先生だけ辞めさせますか。それも文部省の圧力で?今の経済学部に自浄作用は期待できませんよ。河合先生をきっかけに、東大に国家主義者だけが残ることになったらどうするんです」
「それで大学が、当局の顔色を窺うというのかね。それこそ大学の自治は死滅するぞ」
「喧嘩両成敗」によって国家主義者を追い出し、首の皮一枚でも残して「自治」を守ろうとする田中。そうした行為が結局は自治の瓦解につながると断じる南原。二人の対立に、当時大学が抱えたジレンマの苦悶を鮮やかに重ね、浮き彫りにする場面だ。南原がそう危惧したのは、当時、南原自身が弟子の丸山真男とともに、学内外の逆風にさらされていたからだ。