「滝川事件」と「天皇機関説」
転機は1931年の満州事変後に訪れた。32年から33年にかけ、裁判所の判事や書記が共産党に関わる活動を行ったとして逮捕される「司法赤化事件」が起きた。
右翼や一部政治家は帝国大法学部が赤化の元凶だと非難し、司法試験委員だった京都帝大法学部の滝川幸辰教授を槍玉に挙げた。33年4月に内務省は滝川教授の著書「刑法読本」「刑法講義」を発禁処分にし、5月には鳩山一郎文部相が京大に滝川教授の罷免を要求した。だが小西重直総長と法学部教授会がこれを拒絶したため、鳩山文部相は文官高等分限委員会に休職を諮問し、文官分限令によって滝川教授を休職させた。
反発した31人の教授を含む全教員が辞表を出し、小西総長は辞任に追い込まれたが、後任の松井元興総長は滝川、佐々木惣一、末川博ら6人のみを免官とし、教授会は分裂して抵抗は止んだ。いわゆる「滝川事件」あるいは「京大事件」である。
当時、東大では南原、横田喜三郎、宮沢俊義ら若手が京大を後ろから支えようと声を挙げたが、美濃部達吉ら長老学者の自重論に押され、それ以上は動けなかった。
だが東大にも、すぐ火の粉は飛んできた。
「天皇機関説」事件である。
「天皇機関説」とは、東大で憲法講座を担当した美濃部達吉教授らが唱えた説で、明治憲法上の天皇の地位について、イエリネックの国家法人説を適用し、統治権の主体は法人である国家であり、天皇はその最高の機関である、とした学説だ。東大を退官して1932年に貴族院議員に就いた美濃部はロンドン軍縮会議後、統帥権問題をめぐって軍部・右翼の攻撃にさらされ、35年2月、貴族院で菊池武夫の弾劾を受けた。美濃部は議会で「一身上の弁明」を行って国家法人説の理論的正当性を説き、最後は拍手まで起きたが、その後、不敬罪の疑いで取り調べを受けた。起訴猶予になったものの、美濃部は貴族院議員を辞し、「憲法撮要」など3冊の著書は発禁処分になった。当時の岡田啓介内閣は、天皇機関説を排し、天皇が統治権の主体であるとする「国体明徴声明」を二度にわたって出した。
かつては通説として、官僚らも暗記するほどだった天皇機関説は、もはや教えることも禁じられ、美濃部は「学匪」と呼ばれて貴族院を追われ、不敬罪に問われて孤立無援になった。だが東大でも言論界でも、擁護の声は上がらなかった。2・26事件の前年のことである。
小説「夏の坂道」では、美濃部のために何の援護もできなかった南原と宮沢俊義が美濃部の慰労会を開いた帰り、二人で歩きながら話をする場面が出てくる。宮沢は美濃部の後継として憲法講座を担当したとたんに機関説を覆された。「この先も宮沢先生が大学に残って、機関説の炎を絶やさんことが日本のためでしょうな」。そう語りかける南原に、宮沢は答える。「そうかもしれません。これからの学生は機関説を知ることすら難しくなりますから」。そう続けた後で著者は地の文章でこう書いている。
もしも機関説問題が美濃部の在任中に起こっていたら、東大は学部ごと巻き込まれていただろう。一つの学説から大学の自治、学問の自由にまで発展し、最終的に教授たちが辞表取りまとめで対抗しても屈するほかはなかった。滝川事件の時と違って、今回は世間も当局の味方だったのだ。
そうなれば実害を被るのは学べなくなる学生と、そんな若者たちに牽引されて行く次代の日本だ。