外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(26) 作家・村木嵐さんと考える「学問の自由」

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言論弾圧の歴史

   ここで「夏の坂道」と「聞き書 南原繁(丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会)を元に、南原繁の人生と戦時下の言論弾圧の歴史をざっと振り返ってみたい。

   南原は1889(明治22)年に香川県で生まれ、1910年に一高を卒業して東京帝大法学部政治学科に入学した。一高では森戸辰男らと共に校長の新渡戸稲造の薫陶を受け、柏木で聖書研究に没頭する内村鑑三の門をたたいた。同世代に高木八尺、三谷隆正、矢内原忠雄、前田多門たちがおり、内村に信仰の道を学んだ。南原は以後、生涯にわたって無教会主義キリスト教の信者となる。ちなみに新渡戸と内村は札幌農学校の2期生で、在学中に「イエスを信ずる者の契約」に署名し、「札幌バンド」を結成した。

   大学を卒業後、南原は内務省に入り、富山県射水郡の郡長として現場で治水・排水事業に取り組んだ。また、警保局の事務官として内務省に戻ってからは、労働組合法の草案作りも担当した。

   1921年、南原は内務省を辞して母校に助教授として戻り、ロンドン大、ベルリン大、フランスのグルノーブル大などで学んで帰国し、25年に教授になった。研究者としてはギリシャとドイツ理想主義哲学、カントからフィヒテへと関心を深めていった。

   だが南原が教授になった1925(大正14)年は、大正デモクラシーの成果ともいえる普通選挙法と、その後の言論弾圧への布石となる治安維持法がほぼ同時に成立するという時代の分水嶺にあたっていた。陸軍4個師団が廃止されると同時に学校教練が始まるという、左右の競り合いが激化する傾向が強まっていった。

   南原は大学人になるにあたって、ジャーナリズムの活動はせず、大学行政にも一切関与しないという原則を自分に課した。研究と講義に専念し、学内政治とは距離を置くという立場だ。しかしその南原をして、やがて大渦に巻き込まずにはすまない激動が待ち受けていた。

   1928年には3・15事件、翌年には4・16事件が起きて、日本共産党の一斉検挙がなされたが、30年には壊滅した党の再建資金カンパに応じたとして、東大では法学部の平野義太郎助教授、経済学部では山田盛太郎助教授が大学を追われた。だが二人は辞意を表明したため、この時は表立った問題にはならなかった。

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