外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(25) 知床で考える「自然と文明」の境界

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石名坂豪さんと考える知床の今

   その人物とは、知床財団で保護管理部長を務める石名坂豪さん(47)だ。

   東京生まれの石名坂さんは日本大学農獣医学部獣医学科を卒業後、北大大学院獣医学研究科博士課程を修了。学生時代からトドやアザラシなど海生哺乳類の研究のため知床の羅臼町に何度も通った。日大獣医学科助手の後、環境省臨時職員を経て08年から知床財団に勤務している。獣医学博士であり、知床の海上・陸上の生態系に精通したプロだ。映像作品「THE LIMIT」について尋ねると、こう語ってくれた。

「映像撮影にあたって、監督自身もヒグマには近づきすぎないようにお願いした。ヒグマの迫力ある映像を取ろうとしてプロ、アマのカメラマンがヒグマとの距離を過度に縮め、我々はとても困っている、とお話しした。それが監督の心に響いたらしく、もう一本別のテーマで作りたいというお気持ちになったらしい」

   知床国立公園内でのヒグマの目撃情報は年間1000~1400件に上る。知床財団はそのうち600回以上、現場で対応し、公園外の住宅地などでも年間300回以上対応しているという。だが、「お願いベース」で人間を管理するのは、もう限界に近い。

   その背景として、石名坂さんは三つの要因を挙げる。

   第一はマイカーやレンタカーが増え、駐車場や道路の収容力が、時期や日によっては既に限界を超えている点だ。路上にクマが出ると「クマ渋滞」になり、窓を全開にして写真を撮ったり、車外に出たり、近づいたりする人もいる。そうして「人慣れ」したクマは、人を恐れないようになり、住宅などに近づく。

   第二はカラフトマスやサケの釣り客だ。一部は車中で寝泊まりし、ゴミや残飯を散らかす人もいる。釣り中にクマが現れると荷物や魚を置き去りにする。クマは、魚やパンなどを楽に得ようと人に近づくことになる。

   第三は地元住民の不注意だ。魚を低い場所に干したり、夜間に生ゴミ入りのバケツを屋外に置いてしまう人もいる。「人間優先ゾーン」にクマが入り込む誘因になる。

   人の食べ物や生ゴミに餌付いたクマは執着心のスイッチが入って格段と危険な存在になり、何らかのトラブルを起こして捕殺される傾向が高まる。

   知床財団では、環境省など関係行政機関が策定した「知床半島ヒグマ管理計画」(2017~21年)に従い、クマが出た場所(ゾーニング)とクマの個体識別に基づいた個体ごとの性格によって対応している。例えば警戒心が低いだけの個体はクマ優先ゾーンの国立公園内では追い払うが、人間優先ゾーンの市街地に接近・侵入された場合、安全に追い払えないと判断すれば、猟友会と連携してやむなく射殺するなどの対応をとる。

   また財団は2019年から3年計画で、北海道立総合研究機構や北大と共同でヒグマの個体数調査を環境省の研究費を得て進めてきた。毛根つきの体毛、新鮮な糞便、麻酔銃で特殊な針を飛ばしてヒグマから採取した皮膚片などを用い、遺伝子による個体識別も行っている。その結果、2019年には少なくとも350頭のヒグマが知床半島内に生息していたことが明らかになった。

   さまざまな保護政策により、ヒグマがたくさんいること自体は世界遺産地域としては喜ばしい。だが知床の場合は、もともと土地が狭いうえに、ヒグマを高度に観光利用していることが問題を引き起こしている、と石名坂さんは指摘する。

   ヒグマが道路沿いに出ると、財団職員は大声を上げたりクラクションを鳴らして何度も追い払い、散弾銃持参でプレッシャーをかけ、少し離れたらゴム弾で痛みを与えて追い払ってきた。一方、人には、車から降りないように呼びかけ、車を長時間停車させず、渋滞を起こさないよう要請してきたが、すぐには従わない人が少なくない。

   こうして過度に「人慣れ」が進むと、クマは人に脅威を感じなくなり、住宅地に近寄りやすくなる。

   斜里町側の国立公園の中心観光地である幌別・岩尾別地区で12~17年に生まれ、その後に独立が確認された子グマ6頭のうち、オスの2頭が住宅付近で問題行動を起こし、満3歳の春に射殺された。また、ヒグマの多いルシャ地区で06~12年に生まれ満2歳まで育った子グマ35頭のうち、半数近い17頭が、人為的要因でその後死亡したという。若い時に国立公園内で人間と接触して暮らすと、人間を避けない傾向が強まり、移動分散先の住宅地周辺や畑作地帯でも、国立公園内と同じように呑気な行動をとり、寿命を縮めてしまうのだ。

   知床で問題を起こしたヒグマを射殺する場合、事情に詳しい知床財団の職員もたびたび射手になる。狩猟免許をもつ石名坂さんもその一人だ。

   こうした状況について石名坂さんは、ヒグマの生息地を交差点に例えて次のようにいう。

「今の知床は、交通量が激しいのに信号がない交差点のようなものです。『この交差点は危ないので避けてください』とか、『こちらの車は道を譲ってください』と権限の無い私たちがお願いしても、聞いてくれる人ばかりではない。法律の根拠がないお願いベースは限界に近い。信号の設置と、信号無視する人をたまには捕まえる仕組みがもはや必要です」
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