外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(25) 知床で考える「自然と文明」の境界

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浮上する「THE LIMIT(限界)」

   女満別空港から斜里の市街地を目指し、そこからさらに40分、車で直線路を走らせるとウトロの集落に着く。ここは世界自然遺産への玄関口であり、陸路で行けない先端の知床岬まで、洋上から半島を眺める観光船の出港地にもなっている。

   10月中旬に訪ねたウトロは、あいにくの雨もようで、夜になって小雨がちらついた。宿の近くの居酒屋で夕食でもと探したら、ほとんどが閉店していた。コロナ禍の影響かとも思ったが、「Go Toトラベル」キャンペーンに東京発着の商品販売が加わったせいか、観光バスなどが増え、泊り客は思いのほか多い。

   不思議に思いながら近くの「知床第一ホテル」まで歩いて食事を済ませ、いざ帰ろうという段になって、閉店の理由を悟った。

   ホテルの玄関を歩いて10秒ほどで、マスクが吹き飛ばされ、ついで帽子が叩き落とされて舞い上がり、暗い空に吸い込まれた。山おろしの突風が吹き荒れ、歩くことすらできない。体ごと宙に持ち運ばれそうな風圧だ。慌てて近くの石垣にしがみつき、鞭打つ凶暴な風を背に受けて耐えた。吹きすぎる風が耳元で不気味な唸りをあげる。進むことも退くこともできず、10数分が過ぎた。風は雨交じりになり、激しさを増していく。

   その時、ホテルの建物の陰は横から吹き込む風が弱いことに気づき、石垣につかまったまま横に這い、ようやくホテルの裏口にたどり着いた。フロントで事情を話して宿に電話をかけてもらい、車で迎えに来てもらってようやく宿に帰った。部屋に帰ると、石垣にしがみついたため、指が血だらけになっていた。

   翌朝は打って変わって秋晴れになった。昨日訪ねて閉店だった居酒屋に寄ると、ご主人がこともなげに言う。

「ゆうべのような日は、店を開けても客は来ない。うちは地元の常連が多い。昨夜みたいな日は、出かけると危ないのを知ってるからね」

   私が住む札幌では、円山、藻岩山という二つの原生林が市街地まで張り出し、世界でも珍しく、自然が身近に迫る都市だ。冬には地吹雪が路上に吹き荒れ、方向感覚を失うホワイトアウトも何度か経験した。だが所詮は都会であり、自然とは画然と隔たれた箱庭の世界だ。知床初日の夜の体験で、自然の持つ牙の鋭さと荒々しさを、ちょっとだけ肌で感じた気がした。

   ウトロの集落から10数分で、知床自然センターの建物が現れ、さらに山道を走り上ると、知床五湖への入り口「知床五湖フィールドハウス」が見える。

   知床五湖は、神が5本の指を突いてできたという伝説をもつ。知床は何度か訪れたが、五湖を再訪するのは、中学の修学旅行以来、半世紀ぶりのことだ。ハウスで10分間の事前レクチャーを受け、長靴に履き換えて遊歩道に足を踏み入れる。遊歩道は制度上の「ヒグマ活動期」である5月から7月にかけてはガイドツアーに限定されるが、「植生保護期」はレクチャーを受ければガイドがいなくても歩ける。ただしヒグマの目撃情報によっては高架木道のみの散策になることもある。

   遊歩道では前日、ヒグマが目撃されたが、のちに述べる知床財団から施設管理者への助言で、この日は一周3キロ、約1時間かかる「大ループ」の周遊が許された。

   半世紀という空白を一瞬に消し去ってしまうほど、五湖の眺めは昔日と変わりなかった。

   前夜の突風で木々の紅葉は叩き落とされ、山道は赤や黄、茶色の葉が敷き詰められ、秋のじゅうたんのように華やいで見えた。ガイドの男性が、「こんなに穏やかな水はめったに見られません」というほど、五湖の水面は鏡面のように滑らかで、さざ波ひとつとしてない。

   そこに映る「逆さ連山」は燃えるような赤、黄に彩られ、斑模様に彩られている。

   紅葉が映えるには、赤や黄色だけでなく、そうした色味を引き立てる緑や青が欠かせない、と聞いたことがある。紅葉するミズナラやイタヤカエデなど広葉樹だけでは、きれいはきれいだが、どことなく物足りない。トドマツやイチイといった濃緑の針葉樹が混じる針広混交林でなければ、このように多彩で奥の深い色合いは生まれないだろう。この日は幸い、その錦秋を引き立てる秋空の澄み切った青みにも恵まれた。

   遊歩道は一方通行で、その先は800メートルの高架木道になっている。こちらはクマの手が届かない高さになっており、さらに電気柵が張り巡らされていてシーズンを問わず往復できる。そこから、「知床100平方メートル運動」の植林地や今の植生の回復度を見晴らすこともできる。

   これほど広大な原生林を切り拓いて入植し、開拓した人々がいた。100年に及ぶ開拓の跡は消し去られたが、その跡地を、今度は数百年をかけて元の原生林に返そうとする人たちがいる。その空間と時間のスケールに圧倒され、しばらく無言のまま展望台に佇んだ。

   五湖の帰りに、知床自然センターに立ち寄った。この施設を管理運営するのは、斜里町と羅臼町が設立した「公益財団法人 知床財団」だ。ここでは知床の情報を提供するだけでなく、野生動物の保護管理や、調査研究も行っている。そのセンターでは、世界自然遺産登録が決まって15周年にあたる今年7月17日から、従来の「知床の四季」に代えて新たな映像2作品が上映されるようになった。雄大な自然を紹介する「知床の冒険」と、「THE LIMIT」だ。

   後者は、自然センターを「知床観光」の拠点と考える人にとっては、不思議な作品といえるだろう。道路に出没するヒグマや、それを競って見る観光客のマイカーやレンタカーが引き起こす「クマ渋滞」を描き、そうした「人慣れ」が習い性となって人里に接近するヒグマが、人身事故を起こしかねない危うさに警告を発する内容であるからだ。自然の豊かさをアピールする一方、こうした啓発をせざるを得ないところに、今の知床のジレンマが浮き彫りになっている。

   2作品を制作したのは映画「生きとし生けるもの」で日本映画撮影監督協会(JSC)賞を受けた今津秀邦監督だ。実は撮影にあたって、財団側が今津監督に知床の現状について、人間とヒグマの距離が「限界」に近いところまで縮まっていることを説明し、撮影にあたっても、その点を考慮してほしい、と訴えた。自然と人間の関係は、セットにしなければ見えてこない。そうした思いから、映像は2作がセットになり、交互上映されることになったのだという。 10月13日夕、「THE LIMIT」を見た後で、今津監督に助言をした人物と会った。

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