外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(25) 知床で考える「自然と文明」の境界

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   この秋、東北や北陸でツキノワグマが出没し、人が死傷する事件が相次いだ。鹿やイノシシが列車に衝突する事故も急増している。高度に文明化、都市化したこの国で、何が起きているのか。自然が豊かな北海道・知床半島に出かけ、第一線で活動する人と共に、「自然」と「文明」の境界を考えた。

  •                      (マンガ:山井教雄)
                         (マンガ:山井教雄)
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世界自然遺産・知床

   知床は、北海道の北東部に伸びる細長い半島で、オホーツク海に突き出している(根室海峡も地理学的にはオホーツク海の一部という)。中央部を1500メートル級の連山が貫き、絶壁に阻まれて、人が海側から立ち入ることは難しい。1500メートル級といっても、北海道の気象の厳しさは、本州の山々に1千メートルを加えた環境に近い。

   こうして、もともと要害堅固の地ではあったが、その環境が自然条件ゆえに自ずと残されたわけではない。地元の人々が保存を呼びかけ、全国の賛同者の力添えで自然が守られた。「自然保護派」と「開発派」のせめぎ合いのなかで、「保護派」が機先を制して土地を買い取った結果、人為によって残された自然なのである。

   1970年代、それまで国内でも訪れる人が少なかった秘境・知床に転機が訪れた。

   1970年、歌手の加藤登紀子さんが森繁久彌作詞作曲の「知床旅情」をカバーし、翌年にはオリコンで7週連続1位の大ヒットになった。60年代の「政治の季節」が終わり、北海道には、大型リュックを背負った「カニ族」の若者たちが、辺境の自然に憩いや癒しを求めて押し寄せる時代になっていた。

   1972年6月には、自民党総裁選を控えた田中角栄が政策綱領「日本列島改造論」を刊行し、角栄が総理になったことから、ベストセラーになった。全国で開発を当て込んだ土地投機が始まり、不動産が急騰する時代の幕開けである。

   そのころ、知床の農家にも転機が訪れていた。辰濃和男編著「よみがえれ知床」(朝日新書)によると、知床の岩尾別地区には大正、昭和初期、戦後の3回にわたって集団入植があった。原生林を切り拓き、冬は流氷に閉ざされる過酷な環境で農業にいそしんだ人々も、少しずつ離農し、高度成長経済に沸く都会に向かうようになっていた。一時は開拓団地に集団移転して通い作を続けた人々も、徐々にその数が減り、1973年には最後の農家が離農して開拓の歴史に幕を下ろした。

   こうした社会条件が重なれば、どうなるか。離農した地主は、町に土地の買い取りを求める。開発業者は、折からの「秘境ブーム」を当て込んで高額の買収条件を出す。すでに交渉に応じた地主もいて、開発業者はその土地を道外で「土地高騰」の夢を見る人々に宅地並みの価格で転売しようとしていた。

   開発か、保護か。2者択一を迫られた当時の藤谷豊・斜里町長は、勝負に打って出た。

   1977年1月、藤谷町長は役場内で会見し、「知床100平方メートル」構想を発表した。全国の人々に区画100平方メートル単位で8千円の寄金をしてもらうという計画だ。土地は町が保有したままで、森の再生に責任を持つ。寄金を寄せた人は、自分の土地になるわけではないが、乱開発から自然を守り、自分も運動に参画したという自負や満足感を与えられる。運動のパンフレットには、「しれとこで夢を買いませんか」というコピーが使われた。

   反響は大きかった。当初の運動の目標額は、買い取りを求める8人の開拓跡地120ヘクタールを購入するための9600万円だったが、3年7か月後の80年にこれを達成した。

   この間に支援の輪は全国の市民や企業にも広がり、各地に運動の支部も作られた。

   町はさらに買い取り地域を広げ、1996年までに447・70ヘクタールを買い上げることになった。日本で初のナショナル・トラスト運動は、この間に裾野を広げ、開拓跡地に植樹をして、原生林を復元するという方向に舵を切った。運動は「100平方メートル運動の森・トラスト」に名前を変え、運動地にかつてあった原生の森と生態系の再生を目指す取り組みを始めた。「不変の原則」と呼ばれる森の憲法を柱に、100年単位の長期的な目標と20年ごとの中期的な目標を掲げ、5年ごとに5区画で順に回帰作業を続ける遠大な構想だ。

   「夢を買う運動」は、次のステップとして、広大な土地を原生の森に返すという「夢を育てる運動」へと発展したのだった。 この間に知床は1986年の国有林伐採問題などで揺れ動いたが、国立公園、国指定鳥獣保護区、原生自然環境保全地域、森林生態系保護地域などの保護区が重層的に設定され、全国でも最も環境保全が厳しい土地の一つになった。こうした人の手による環境保全の努力が、2005年7月、世界自然遺産への登録に結実した。海洋と陸上の生態系が結びついた豊かな生態系と、生物多様性が評価されたのである。しかも、地元や国民が環境を保全し、将来にわたって「保護・保存が担保されている」というのが登録の条件だ。

   地元の斜里、羅臼が率先して保護に動き、国や道が協力し、科学者や専門家が側面を固めて助言し、それを全国の市民が支える。つまり知床を守るというこれまでの歩みそのものが、知床を世界自然遺産に登録させる礎石になったのだといえるだろう。

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