「スポーツに国境はない」。故白井義男氏が日本人として初めてボクシングの世界王座を獲得した時にメディアが使用した言葉である。白井氏は米国人生物学者アルビン・R・カーン氏によってその才能を見出され、戦後の日本に希望を与えた国民的英雄だ。終戦から7年を経て米国人トレーナーに師事した日本人ボクサーが世界の頂点を極めたドラマに国境は存在しなかった。
「彼から多くのことを学びました」
記者がこの言葉を思い出したのは、フィリピンメディア「The Manila Times」(WEB版)の記事がきっかけだった。2020年10月27日付けの「The Manila Times」では、「アポリナーは貴重な教訓をイノウエから学ぶ」とのタイトルで、フィリピン人の有望ボクサーの特集を組んでいる。
タイトルにあるイノウエとは、WBA、IBF世界バンタム級王者・井上尚弥(27)=大橋=のことである。主人公のペテル・アポリナー(25)は、フィリピン出身のフェザー級ボクサーだ。アポリナーは12勝(8KO)1敗の戦績を誇る地元のホープだという。
今年2月、アポリナーは横浜の大橋ジムにいた。井上のスパーリングパートナーとして招へいされたという。当初、井上は4月25日にWBO世界バンタム級王者ジョンリル・カシメロ(フィリピン)との王座統一戦を予定しており、カシメロと同じフィリピン人ボクサー数名が井上のスパーリングパートナーとして来日した。
約1カ月間、井上のパートナーを務めたというアポリナーは「彼(井上)から多くのことを学びました。辛抱強くなること。そしてチャンスを待ち、それを逃さないこと」と振り返っている。また、井上のスパーリングパートナーを務めたことで地元メディアに露出する機会が増え、うれしい悲鳴を上げている。
「スパーリングパートナーの経験が大きな自信に」
新型コロナウイルスの影響でフィリピンでもボクシングの興行が相次いで中止となり、アポリナーが井上の「教え」を披露する機会はしばらく訪れなかった。アポリナーの今年初めてのリングとなったのは2020年10月7日。地元フィリピンでようやくその時が訪れた。
「イノウエのスパーリングパートナーの経験が大きな自信になりました」
元WBOアジア太平洋バンタム級王者ジェトロ・パブスタン(フィリピン)を判定で破ったアポリナーの言葉だ。アポリナー勝利の報が井上の耳に入っているかどうかは定かではないが、井上の影響を受けた異国のボクサーが自国でみごとな勝利を収めた。アポリナーはインタビューの最後をこう締めくくっている。
「私の夢はもちろん世界チャンピオンになることです」
かつて井上のスパーリングパートナーを務めたフィリピンの若者が、井上の後ろ姿を必死に追っている。アポリナーと同じように井上に憧れ、井上を目指している若いボクサーは世界中にいることだろう。その井上は10月31日(日本時間11月1日)にボクシングの聖地ラスベガスのリングで「世界最強」を証明する。