国定教科書で社会の動きを見ていくと、私たちは多くのことに気づかされる。例えば単に次代を担う世代に、知識 、教養、規範だけを教えるのではなく、より普遍的にこの国は何を伝承すべきかを伝える役割も持っているはずである。つまり、可視の部分と不可視の部分があるということでもある。教育を利用して昭和の戦争は続けられた。戦時下の価値観はまさに平時の教育とは逆行するものであった。
軍が露骨に教育現場に口を挟んだ理由
もし戦時下と言えども日本社会にバランスのとれた指導者がいたならば、戦時下の教育は異様であり、平時の教育とは全てが異なると教えるべきであった。戦争が終わったときに、その平時の価値観こそ尊ばなければならないとの教育も行うべきであった。しかし日本の戦時下の教科書はまるで戦時下こそが常態であり、平時の規範がおかしいと言わんばかりの内容であった。こういう教育の後に次代の者がどのような心理的苦悩を背負いこむか、など考えもしなかったのである。今回から何回かに分けて昭和の戦争時に至るプロセスでの教科書、あるいは戦時下の教科書、などを丹念に分析しながら、私たちの国はなぜ余裕のない直線的な進み方をするのかを考えてみたい。
今回は太平洋戦争下の教科書とその周辺の社会状況をまずは見ておきたい。
1941(昭和16)年4月から小学校は、国民学校に変わった。国民学校令の第1条には、「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」とあった。その上で教師に対しては、皇国の精神を児童生徒に徹底的に叩き込め、と説いた。この段階では日中戦争が、いわゆる泥沼に入った状態なのだが、太平洋戦争にまでは行き着いていなかった。教育の軍国主義化というとその通りだが、本質は教育の中枢が軍部に強い干渉を受けていたことであった。軍が教科書づくりに参加するだけでなく、教育内容にまで口を挟んでいたのである。
この年2月に、陸軍の教育総監部は国民学校の教科書に対して教科ごとに、「陸軍要望事項」なるものを文部省に突きつけていた。「国防的見地ヨリスル国民学校ノ基礎タルベキ事項」なる文書であった。なぜ軍はこれほど露骨に口を挟んだのだろうか。容易に3点が想像されうる。
1. 日中戦争の長期化で国民に疲労が出ていた。軍部に対する批判が社会に内在していた。
2. 対アメリカ戦が想定されていて戦時体制をより徹底させる必要があった。
3. この年1月に東條英機陸相の名で「戦陣訓」が軍内に示達されていた。