「リモート」という罠に気づく
新型コロナの感染拡大が続き、テレビ局でも、自宅や別の場所からの「リモート出演」が一般化した。そこで変わったことはあったのだろうか。
「ある意味で、リモート出演は楽だ。自宅から出かける必要はないし、司会者が振ってきた質問に答えればいい。質問を振られなければ、ただ他の人とのやり取りを聞いているだけでいい」
だが、リモート出演をするようになってから、柳澤さんは、スタジオに一堂に会して話し合うことの意味に気づくようになった、という。
「スタジオにいれば、互いの目を見ながら発言し、おかしいと思えば間髪入れずに割り込むことができる。そうしたやり取りを通して、いろいろな人が多様な考えを持っていると提示することができる。だがリモートでは段取りが優先され、予定調和的なものになりがちだ」
リモート参加を通して、柳澤さんは、「テレビの魅力は『生きもの』である」ことを痛感したという。
「たとえて言えば、スタジオは様々な生きた具材が入ったゴッタ煮のようなものだ。どこで、どんな味になるか、かき混ぜ、食べてみなければわからない。それに対し、バーチャル、つまりリモートは、きれいに撮った具材を並べているが、画角に映る範囲で切り取った具材の映像を並べているだけに近い。そこで意外な化学反応が起きたり、相互のやり取りで新しいものが生まれるということは少ない。テレビの醍醐味は、予定調和が崩れることにあるが、それはリモートでは起きにくい。つまり、バーチャル空間にストーリーはあるが、ドラマはない、ということだろう」
これは現場での取材や、人の取材でも言えることだ。
紛争や戦争取材では、現場から中継をしても、カメラの画角に納まる前方の光景しか映らない。カメラをパン(横に旋回させる)しなければ、左右で何が起きているかを伝えられないし、カメラマンの後方の光景は映らない。
「テレビの映像は、圧倒的な臨場感があるから、見ている人は、映っているものが現実の全てと思い込みがちだ。でも、実際は、それが全てではない。報道は、ただ見せるだけではなく、何を伝えきれていないかを、つねに意識していなくてはならないと思う」
柳澤さんがよく取材した軍事評論家の故・江畑謙介さんは、「自分は専門分野のことはわかるが、それ以外はわからない。わからないことは、わからないと言わねばならない」というのが口癖だった。
「要はわかることと、わからないこと、見えることと、見えないことを峻別して語ることが大切なのだろう。これは記事でも同じだと思う。そこに書かれていることはファクトだが、書かれている以外にもファクトはある。そのことをどうにじませるかが、記事の勝負なのだと思う」
その指摘は、私にもよくわかる。あまりに明快な図式は、そこから排除したものを見えなくさせてしまう。デザインやアピールは、余剰を削ぎ落すことが基本だが、現実ははるかに複雑であり、わかりやすさと複雑さのバランスをどう取るのかが報道の基本だと思う。
現場に行くことの意味は、対面取材についても同じだろう、と柳澤さんは言う。駆けだしの横浜放送局時代、警察取材で学んだのは、実際に会ってみると、言葉とは別に、疑問をぶつけられた時の相手の目や手の動きが、言葉以上に多くを物語ることがあるということだった。電話取材やメールでの言葉のやり取りだけなら、簡単に騙されることもある。だが、生身の人間として対する時には、真剣勝負をたやすく躱(かわ)すことは難しい。
「ただ質問をぶつけ、相手の答えを書くだけなら、Q&Aに過ぎない。答えが返ってきたとき、その言葉が額面通りなのか、自分の内面に落とし込み、納得できるかどうかを知るのが取材なのだと思う」
ニクソン大統領を追い詰めるワシントン・ポストの2人の若い記者を描いた映画「大統領の陰謀」には、疑惑の裏を取ろうとする記者が取材相手に、「もしこのニュースが間違っていたら、10数えるまでのうちに、電話を切ってくれ」と頼む場面がある。
「そういう信頼関係を築くのは人間の生と生の付き合いの結果だし、そこが取材の醍醐味だろう。もちろん、それでも騙されることはあるが、基本は人間同士の信頼関係なのだと思う。そうした関係は、バーチャルな取材では培うことはできない」