保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(55)
プロレタリア教育運動が国定教科書を攻撃した理由

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プロパガンダが持った二つの意味

   こういう意識で教科書の内容に反対していったのである。こういう激しい内容のプロパガンダは二つの意味を持っていた。その第一は、教師は国家の思想や理念を容認するのではなく、労働者としての自覚を持つということであった。そして第二は、児童・生徒を国家に都合のいい兵隊に仕立て上げるな、との信念であった。明らかに1922(大正11)年に結成された共産党の影響を受けているし、この後にできる日本労働組合総評議会などとの関連も伺うことができた。大正デモクラシーと呼称される自由主義的潮流は、第一次世界大戦後の各国の国際協調路線と重なり合い、軍事への嫌悪感や平和思考の動きが日本社会にも一気に熟成するかのように思える時代に入ったのである。

   そうした熟成というのは、「反軍事」「反権力」「人間性の回復」といった言い方もできた。大正10年代の終わりに近づくと、陸軍士官学校の中から中退者が出たり、優秀な生徒が集まると言われた旧制中学からは陸海軍の教育機関を受験する者が極端に減ったり、哲学や理念を主として反軍事の思想的傾向が生まれていた。文学作品が愛読され、人間の正直な姿がテーマとして取り上げられ、青年男女を引き付けた。むろんこうした風潮に軍事の側は嫌悪を示し、陸軍幼年学校、士官学校などはもとより、海軍兵学校などでも文学作品を読んではならん、軟弱になる、と読書制限まで行った。

   前述のプロレタリア教育運動に挺身する教師の中には、天皇制国家そのものへの批判を行う者もあった。その教え方の実践記録を見てみると、天皇は特別の人ではない、自分たちと同じ人間であり、その生活は私たちとは違い、贅沢をしている、といった具合なのである。むろんその内容は大体が教師の作為によるもので、要は「莫大な皇室費とそれを出す人民の窮乏」を教えるのだと、「プロレタリア教育の教材」という冊子は解説している。国家の教育の方向を真正面から批判しているといっても良いであろう。近代日本の学校教育が始まって以来、こういう激しい内容の教育が行われたのはもとより初めてのことであった。

   むろんこのような教育は文部省へ抗することであり、体制そのものへの挑戦であった。しかしそういう教師は決して多くはなかった。

   国家が治安維持法を成立させ、それを元に思想弾圧に乗り出してくるのは、教育界の動きが次代の子供を作ることへの不安からでもあった。大正時代末期のこうした動きは、昭和に入っても続き、プロレタリア教育は、自由主義的な教育とともに主に児童の作文教育などでより明確に顕在化してくることにもなる。いわば可視化してくるとも言えるのだが、教科書の歴史を俯瞰してみると、私たちはこの社会が、次第に近代化が負うべき課題と衝突していく道筋を知ることにもなるのである。(第56回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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