大正末期の時代的特徴といえば、共産主義、あるいは社会主義の思想が急激に社会に広がったと言える。この広がりは、教育水準が上がり、旧制高校から大学に進む青年層が激増したことと、いわゆる無産階級の労働者の意識変革が起こったことなど、いくつもの事実を指摘することができる。いわばそういう人たちの怒りを買う指導者たちの帝国主義的意識なども問われることになった。
「教育は日本の支配階級の権力維持のために使われている手段になっている」
社会主義的な思想に傾いた教師、あるいは知識人は、文部省主導の学校教育に公然と反旗を翻した。1918(大正7)年からの国定教科書は、それ以前と比べると大正デモクラシーの影響があったとはいえ、天皇制国家の柱は強固に固められていた。それに対してプロレタリア教育運動というべき新しい動きが広がっていく。特に修身の内容などを問題としていた。このプロレタリア教育運動について、つまりは次のようにいうことができた。
「彼らはまず教科書に対する『尊崇的態度や観念の破壊』につとめ、具体的には『教科書の読み書きは絶対的に要求してはならないこと』『考査等の際も教科書を読まなくても答案が出来る問を発すること』というような原則を立て、この立場からあらゆる教材を批判的に取り扱い、そうしてまたその教材を『逆用』『利用』したのであった」(『日本人の履歴書』唐澤富太郎)
あえていうなら、脱教科書を目指せ、という意味になった。社会主義的な考えの骨格にあるのは、教育は日本の支配階級の権力維持のために使われている手段になっている、それを打破しなければならない、という点にあった。修身はまさにその象徴だというのであった。資本主義体制の矛盾やその非人間性を児童に教えていくのがこれからの教師の役目というのであった。プロレタリア教育運動に参加している教師たちの間では、これも引用するが次のような激しい内容の文書が回覧されていたというのである。
「おれたち労働者も月曜日の朝っぱらから修身で『国家のために』戦死したエライ人の話を賛美しろ、軍国主義を第二の国民(保阪注・第二の国民とは次代を担う子供たちを指している)にアジれと要求されている。(略)(幼児期から戦争は男らしいと教え)ブルジョワジーはつぎに彼らの意図になる六年間の義務教育で、すっかり『愛国主義者』にたたき上げる手筈だ」