日本における「権力の二重構造」
こうした責任をめぐる小史を振り返ったあとで、齋藤さんは、日本に特有の現象として、
「権力の二重構造」があるという。
「ひとつが国家権力で、法律という明文化されたルールに従って社会が機能する。判断の基準は違法かどうかであり、処罰権は国家に独占されている」
「もうひとつの権力は世間である。世間には明文化されない暗黙の掟が存在し、裁判とは別の情緒的処罰がまかり通る。その処罰の重さはときに圧倒的な威力を発揮し、法律での処罰を凌駕する。裁判の判決ではしばしば世間による処罰が考慮され、そのことが判決そのものに盛り込まれるほどだ。世間で暗黙の掟を司るのは市井の人々で、彼らの正義感や道徳が法律にとって替わるときにメディアがこれに加担し、この国を覆う逸脱を許さない空気ができあがる」
ここには重要なキーワードが二つ、埋め込まれている。「世間」と「空気」だ。
齋藤さんによれば、「世間」とは次のようなものだ。
「世間はその時々でその広がりを自在に変える。使う人の都合、受け取る側の都合、周囲の環境で七変化を遂げる。普段は意識に上ることはそうないが、世間は事あるごとに人々の言動を縛り、世の中を動かす大きな権力をもっている」
これは国家権力とは別に、法律で定められているわけではない暗黙のルールによる権力であり、明確に意識されることなく人々の価値観、身の処し方をコントロールする力だ。
阿部謹也の「世間学」などを参考にしつつ、齋藤さんはこう指摘する。
「家族、ご近所、学校、会社といった利害を同じくする共同体がひとつの『内』として世間を構成する。『内』の存在は『外』が意識されることで成り立つ。外との関係次第では日本という国全体がひとつの世間ともなり得る。イラク人質事件や戦時中の『非国民』で意識された世間はこれに近い」
では「空気」とは何か。齋藤さんはまず、丸山眞男の「無責任の体系」を参照して、意思決定において判断を放棄し、「既成事実への屈伏」によって自らの責任を矮小化する戦時下の軍人や政治家の「思想と行動」を指摘したうえで、山本七平の「空気の研究」を引用する。
山本は日本の意思決定の在り方について「論理的思考」の基準と、「空気的判断」の基準の二つが存在する、と指摘した。山本はその例として戦時下の戦艦大和の出撃について、それを無謀とするデータや根拠があると知りながら、専門家が「空気」を正統性の根拠として出撃を決めた、と指摘した。齋藤さんはこう書く。
「日本は判断の基準が集団の中で鍛えられてきた。集団への依存は高く、集団は結束し、それだけ排他的になる。だから所属する集団・組織の中でマジョリティに逆らい、自分だけが浮いてしまうことに過剰な恐怖を抱く。集団への反逆は、組織人としての証しを失うことにもなる」
その結果、私たちは「反対できる空気ではなかった」と言い訳を述べ、「自分自身は反対だったのだが・・・」と、しばしば無念をにじませる、と齋藤さんはいう。これは、誰にでも身の覚えのある身近な経験だろう。