犠牲が少ない日本の「ミステリー」
日本の10万人あたりの死者数は欧米先進諸国と比べ、けた違いに少ない。ただしアジアやオセアニア諸国・地域には、台湾やタイ中国、マレーシア、ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール、韓国など、もっと少ないところもある。日本以外は程度の差はあれ、強制力を伴うロックダウンを実施した点が共通している。日本はあくまで「要請」ベースの個人による「自粛」だった。しかも日本は他国が実施していない特別の対策も取っていない。むしろ他の先進諸国に比べて集中治療室が少なく、PCR検査の実施能力が低いなどマイナス要因が多かった。それなのになぜ日本はこれまでのところ、欧米の数十分の一という少ない犠牲で済んでいるのか。説得力のある答えはいまだに見つからず、「ミステリー」とされている。山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所長はこれを「ファクターX」と呼んだ。
この点について大岩さんは、「複合要因+幸運」だという。
複合要因の第一は、医療体制だ。発熱しただけで医者に診てもらえる。好きな時に好きな医療機関に行ける。しかも皆保険で、比較的安価にサービスを受けられる。こうした医療の質やアクセスが保障されている国は少ない。
要因の第二は個人レベルの衛生意識の高さ、清潔好きということだ。食事前や帰宅時に手を洗い、箸を使ってものを食べる。しかもマスクをつけることに全く抵抗がない。こうしたことは、強制してもなかなか根づかない習慣だ。
要因の第三は、社会全体の横並び意識や同調圧力が強く、義務化されていなくとも、外出やイベント自粛、在宅勤務の導入などによって、緩やかなロックダウンを維持できた側面だ。
政府や専門家は、日本の「クラスター対策」の特異性や優秀性を強調するが、これは日本だけが実施しているわけではない。では。なぜ他の国がクラスター対策を取っていたのに感染爆発を抑えきれず、日本は抑え込めたのか。大岩さんは、「流行の早い時期に、集団感染がまだ小規模な段階で、クラスター対策の機能を十分に発揮できたからだ」という。これは、日本のクラスター対策の優秀性を示すというより、「幸運だったから」と大岩さんはいう。
だがこの「幸運」は、単なる偶然ではなく、それなりの理由がある。
幸運の第一は、厚労省のPCR検査の目安などにとらわれず、各地の行政担当者や医療従事者が迅速に、機転をきかせて集団感染を防いだという事実だ。その代表例として大岩さんは、中核病院である済生会有田病院で2月中旬に院内感染が起きた際、和歌山県福祉保健部の野尻孝子技官が危機感を抱き、仁坂吉信知事の了解を得たうえで徹底的なPCR検査を行い、集団感染を防いだ例をあげる。当時の厚労省の目安では、PCR検査の対象は中国への渡航歴がある人か、重症の肺炎患者だけだった。県のPCR検査能力は1日80検体が限度だったが、仁坂知事は大阪府の吉村洋文知事に頼んで150人分の検査を実施してもらった。こうした現場の機転と行動力が、10日間で698人分のPCR検査を実施し、感染拡大を防ぐ結果につながった。
大岩さんが、もう一つの例としてあげるのは、北里大学北里研究所病院だ。この病院では、ふだんからPCR検査を実施している研究部が独自に感染の疑いのある人、手術を受ける患者を検査し、さらに4月1日から赴任してくる医師のうち、3月までに勤務する病院で院内感染があった医師にも、念のため検査を実施した。その結果、慶應義塾大学病院から後期臨床研修医として赴任が決まっていた医師の陽性が判明した。
北里研究所病院はすぐに慶應病院に連絡し、慶應病院は、4月1日に別々の病院に赴任予定の99人の研修医全員に、ただちに自宅待機命じ、PCR検査を実施した。検査の結果、18人の感染が判明した。大岩さんは言う。
「日本で感染爆発が避けられたのは、こうした行政担当者や医療従事者が全国で無数の努力を積み重ねた結果です。それを私は『幸運』と呼びましたが、それも、感染の広がりがこれまでのところ緩やかで、現場の努力でしのげる規模だったからです。この先も、『幸運』が続くという保証はありません」
大岩さんが「第二の幸運」としてあげるのは、日本を訪れる外国人のうち、圧倒的に多かったのが、死亡者数を低く抑えているアジア諸国からの訪日客だったという点だ。もしこれが、オーバーシュートが起きた欧米客が多数であれば、感染は爆発的になった可能性がある。日本は、2月の中国由来のウイルスの抑え込みに成功したが、欧米由来のウイルスの抑え込みがうまくいかずに4月7日の緊急事態宣言につながった。だが、もし欧米からの訪日客が多いなど往来が頻繁であったら、この程度では済まなかったろう。現に、欧州からの渡航や往来を制限しなかった米国では、欧州に引き続き、あっという間に感染爆発に直面した。