「最後のバンカー」西川善文氏が死去 半沢直樹ばりに会長に退任迫る激しさ

建築予定地やご希望の地域の工務店へ一括無料資料請求

   「最後のバンカー」と称される、元三井住友銀行頭取の西川善文氏が2020年9月11日、亡くなった。82歳だった。

   大手銀行が相次いで経営破たんし、合従連衡の渦に巻き込まれた金融危機の時代に、「水と油」ともいわれた財閥系のさくら銀行(前身は三井銀行と太陽神戸銀行)と住友銀行の合併(現・三井住友銀行)を成功させ、小泉純一郎首相の下で民営化された日本郵政の初代社長に就いた。強面で日頃から声が大きく、怒鳴ることも少なくなかったが、強力なリーダーシップを発揮した。

  • ザ・ラストバンカー 本(講談社)
    ザ・ラストバンカー 本(講談社)
  • ザ・ラストバンカー 本(講談社)

「強面」「剛腕」で乗り切った金融危機時代

   西川善文氏のバンカー時代は、修羅場の連続だった。大阪大法学部を卒業後、1961(昭和36)年に住友銀行に入行。「天皇」といわれた磯田一郎頭取~会長時代には、同氏に引き立てられ、融資部長、企画部長として銀行に巨額の損失をもたらした安宅産業の経営破たん処理に力を注いだ。

   また、イトマン事件の処理にも奔走。自身の著書「ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録」では、経営トップが関与して、銀行からイトマンを通じて暴力団関係者に資金が流れたことに「住友銀行の恥」と、憤りをぶつけている。

   その後、西川氏が磯田氏に退任を迫ったエピソードはバンカーの語り草で、さながらドラマ「半沢直樹」のような激しさと覚悟があったに違いない。

   1997年、58歳の若さで頭取に就任。この年11月に北海道拓殖銀行、山一證券が立て続けに経営破たん。金融危機時代に突入。銀行は合従連衡を繰り返した。2001年、「攻めの経営」に転じた住友銀行はさくら銀行と合併。西川氏は三井住友銀行の初代頭取に就き、翌年12月に持ち株会社の三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)社長を兼任する。05年に特別顧問に退いた。

   多額の不良債権処理を強力に推し進めたことから、03年2月にはSMFGの自己資本を増強するため、米ゴールドマン・サックス(GS)に有利な条件で支援を求めた。それにより、外資を儲けさせた「売国奴」呼ばわりもされた。

晩節を汚した? 日本郵政時代

   郵政民営化を掲げた小泉政権下では、民営化前の2006年1月に発足した日本郵政の初代社長に就任。郵政民営化に向け、陣頭指揮に当たった。大手銀行のトップを務めた人物が、「敵対」していた「巨大・郵政」のトップに就くことなど、銀行関係者ら、周囲は猛反対したが、それを振り切って転身した。

   ただ、JPエクスプレスの大混乱や、かんぽの宿問題でグループのイメージが悪化。懸案とされた特定局長会をはじめとするガバナンス不全にメスが入ることなく、09年にポストを追われた。民主党政権による「見直し」発言など、郵政民営化路線に逆風が吹いたことも、痛手だった。

   インターネットには、

「『ラストバンカー』ですか、また一つの時代が終わったんですね。合掌」
「西川さんと同期の方から伝説は聞いております。ご冥福をお祈りいたします」

といった声がある半面、

「故人の悪口は言いたくないが、銀行が助かるためだったとはいえ、取引先や既存株主を切り捨てた経営者として今でも軽蔑している」
「銀行時代に金融面でさまざまな業績を上げていたことは認める。しかし、郵政を民営化し、今の郵政をダメにしてしまった人物です」
「日本郵政は民営化後、利権がらみで政府が据え置く経営陣にずっと振り回され続けている。その犠牲者ではあったと思う」
「郵政の自爆営業をやめさせなかった人か」

と、手厳しい声も寄せられている。

言うべき意見は言うべき時にビシッと

   元銀行支店長で企業アナリストの大関暁夫氏は、

「西川さんは、余計なことはごちゃごちゃ言わない。言うべき意見は言うべき時にビシッと言うタイプでした。全銀協の会議などでの発言では、とにかく厳しさにあふれ、物言いの鋭さからも怖い存在でした。
郵政のトップに就かれて、政治に翻弄される姿には、おそらく内面で煮えたぎるものがあったのではないかというのが、想像に難くないところで、『西川カラー』が発揮できないことに忸怩たるものがあったのではないでしょうか。
今のSMBCにも、西川氏由来の住友カラーを感じます。かつての護送船団のような仲良しグループのバンカーたちとは一線を画する、まさにザ・ラストバンカーであったのではないでしょうか」

と話している。

姉妹サイト