保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(54)
関東大震災と「天譴論」

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   天譴(てんけん)論は、表面的には極めて誤解を生む表現だが、その内実を辿ると必ずしもそうは言えない。「天が罰を与えた」というのが本来の意味であるとしても、人によって吐かれると必ずしもそうは言えなくなる。

   関東大震災から8日目に当たる1923(大正12)年9月9日に、東京商工会議所で渋沢栄一は講演を行っている。集まったのはやはり実業家40人だったのだが、そこで渋沢は、「政治、経済、社会に亘り果たして天意に背くことなかりしや」と天譴を具体的に語った。この時に、「大震災は天譴ではないか」というのは、渋沢にすれば「帝国の文化は進んだが、それは東京、横浜においてであった。それが全滅した。この文化は道理にかなっているのか、天運にかなった文化なのか、近来の政治は私利私欲に走っているのではないか、そのことを考えてみるべきであろう」との意味だというのである。

  • 渋沢栄一は、関東大震災から8日目に「天譴論」を具体的に語った(写真は国立国会図書館ウェブサイトから)
    渋沢栄一は、関東大震災から8日目に「天譴論」を具体的に語った(写真は国立国会図書館ウェブサイトから)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • 渋沢栄一は、関東大震災から8日目に「天譴論」を具体的に語った(写真は国立国会図書館ウェブサイトから)
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国民全体に「天」が警告を発する

   渋沢はこの頃に、報知新聞のインタビューでもこの天譴論を語っている。むろん大震災で亡くなった人たちに冷たい言を浴びせているのではなく、犠牲者はまさにその犠牲だったとの意味にもなったのである。

   「天譴」の語源は、中国の前漢時代の儒学者薫仲舒(こうちゅうじょ)の漢籍からとったということになるのだが、いかにも漢籍に通じている渋沢らしい表現である。このほかにも天譴論に通じる表現を用いたのは、半澤健市の論文(「一橋大学機関リポジトリ」2012)を参考にして記述を進めると、北原白秋の「天意下る」と題して7首の短歌を詠んでいる。その中に次の一首がある。

世を挙り 心傲ると 歳久し 天地(あめつち)の 譴怒(いかり)いただきにけり

   国民全体に「天」が警告を発したというのであった。白秋の短歌はいずれもこのような強い表現であった。クリスチャンの内村鑑三なども、天譴という語を用いることはないが、これに類する震災論を発表している。彼の日記には、「我等の説教を以てしては到底行ふこと能わざる大改造を、神は地震と火とを以て行ひ給うたのである」と書いた。人類の歴史には、度々滅亡があったが、それは救いのための滅亡だったと考えるべきだと説くのである。この現実の過酷さは、神が与えたまいし試練との考えとも言えるように思えるのである。

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