「1ドルくれたら、ドナルド・トランプに投票しないよ」
ある夜、アッパーウエストサイドの住宅地で、高級ホテルの前を通りかかった。コロナの影響で利用客が激減し、宿泊代がどれほど下がったのか、フロントの男性に聞いてみると、「ここは市が運営するシェルターになったんですよ」と答えた。
「コロナが収束すれば、来年3月頃にはホテルとして再開できるかもしれないけれど。僕はここでずっと働いてきたから、解雇されなくてよかったよ」
ホテルのロビーは、マイノリティの男性たちで賑やかだった。外の階段に腰かけている男性に声をかけた。
「他のシェルターではいつコロナに感染するか、心配でたまらなかった。ここに来れて、うれしいよ」
濃密なシェルターでの感染拡大を防ぐために、一時的にホームレスを収容するホテルが増えた。収入源を失ったホテルにも、メリットがある。
複数のホテルがシェルターとなったこの地域の住民の一部は、「ホームレスの中には、ドラッグ依存症や性犯罪者もいる。治安が悪くなり、街の雰囲気が変わってしまった」と大きな不安を抱いている、と報道されていた。
住民らは、路上で性的行為を行うホームレスや、道端に捨てられた使用済みのドラッグの針などの写真を集め、「道端で放尿、セックス、ドラッグ。ホームレスに手を差し伸べたいが、こんな環境で子供を育てられず、安心して暮らせない」と訴える。
カウンセリングや医療サービスも用意されているが、コロナ感染防止のために活用できなかったり、必要な人にサービスが行き届いていなかったりと、問題が残されている。
住民らは、「不満や苦情の声が上がると、市は別の地域のホテルにホームレスを移すだけで、根本的な解決になっていない」、「デ・ブラジオ市長が家族とホテルに住んでみたら、私たちの気持ちがわかる」と憤る。
数か月前、マンハッタンの中心部に住む知人が、一時的に郊外に越した。彼のアパートの隣にあるホテルがシェルターに変わったことが、大きな理由だった。
これまでは、地下鉄で寝るホームレスも多かったが、今はコロナ感染防止のために夜中に車両を消毒しており、寝床を失った人も少なくない。シェルターで盗難に遭った、規則に縛られたくない、などの理由で、「外で寝る方がまし」という声も直接、ホームレスの人たちから聞いたことがある。
街で言葉を交わした人々の多くが、「今後、ホームレスがもっと多くなる」と憂える。コロナの影響による解雇や減収で、家賃を払えない人たちが増えると予想されるからだ。
ある朝、閑散としたブロードウエイ劇場街を歩いていると、ホームレスの男性2人が歩道の両脇にそれぞれ横たわっていた。1人ははだけたTシャツに短パンで背を向けて寝ているが、段ボール紙の文字はこちらを向いていた。
1 dollar and I will not vote for Donald Trump.
1ドルくれたら、ドナルド・トランプに投票しないよ。
黒いマジックで書かれた文字は、どれも丁寧に赤く縁取られ、その横に描かれたトランプ氏の似顔に、斜線が入っている。
ああ、ニューヨークだ。
厳しい生活を強いられているはずなのに、ホームレスの人の作る「サイン」に、ウィットを感じることが多い。そして、それに応える人が、この街には必ずいる。
ふと見ると、誰かが置いていったのだろう。「サイン」のすぐ脇に、ジップロック入りのサンドイッチがそっと置かれていた。 (随時掲載)
++ 岡田光世プロフィール
おかだ・みつよ 作家・エッセイスト
東京都出身。青山学院大卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。日本の大手新聞社のアメリカ現地紙記者を経て、日本と米国を行き来しながら、米国市民の日常と哀歓を描いている。米中西部で暮らした経験もある。文春文庫のエッセイ「ニューヨークの魔法」シリーズは2007年の第1弾から累計40万部。2019年5月9日刊行のシリーズ第9弾「ニューヨークの魔法は終わらない」で、シリーズが完結。著書はほかに「アメリカの家族」「ニューヨーク日本人教育事情」(ともに岩波新書)などがある。