世界の行き来を止めたコロナ禍は、私たちが自明の前提としていたグローバル化が、いかに脆いかを示した。ヒト・モノ・カネの自由な流れは、いつ復活するのか。それまでの間、変容を続ける国際関係は、やはり「新常態」として定着するのではないか。国際関係の実務、理論に通じた二人の専門家と共に、日本がコロナ禍で果たすべき役割考える。
国連の政務官を務めた川端清隆さんに聞く「グローバル化」
「グローバル化」という言葉を聞くと、反射的に、ある人物の顔が思い浮かぶ。
たぶん、日本人の中でもかなり早い時期に、冷戦の終わりと、その後のグローバル化の流れを現場で体感した人だ。ニューヨークの国連本部の政治局で、1988年から25年間、政務官を務めた福岡女学院大学特命教授の川端清隆さん(65)に8月25日、ZOOMで話をうかがった。インタビューの内容をご紹介する前に、川端さんが「グローバル化」を直に目撃した場面、2001年9月11日に立ち返ろう。
その朝、川端さんは、ニュージャージー州北部のテナフライの自宅を出て、ハドソン川を挟んで対岸にあるマンハッタン行き高速バスに乗車した。
バスは、リンカーン・トンネルに入る前に,マンハッタンの全体を眺望できるニュージャージー側の小高い場所を通る。しばしば映画やテレビなどで使われる撮影ポイントだ。雲一つない秋晴れで、前面の青空に摩天楼の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。
午前9時の少し前だった。座席でニューヨーク・タイムズの朝刊を読んでいると、周辺にざわめきが広がった。
窓から外を見ると、マンハッタン南部にあるワールド・トレード・センターのツインタワーのうち、北棟の上部から大きな黒煙が噴き出し、空を覆って棚引いているのが見えた。
火事か?ガス爆発か?
とっさに思い付いたのは、何らかの事故の可能性であった。しかしそのうち、携帯電話に流れるニュース速報を見た乗客が、「飛行機が突っ込んだらしい」と漏らした。
マンハッタン観光のセスナ機が突っ込んだのだろうか。過去の事故を思い起こしながら推測していると、目の前で今度は南棟が巨大なオレンジ色の焔に包まれ、煙を噴き上げた。
「また飛行機が突っ込んだぞ」
信じられない光景はその瞬間で途切れ、バスはトンネルに入った。バスの終点は、全米最大のバス発着ターミナル「ポート・オーソリティ」だ。まだ地下鉄は動いていた。タイムズ・スクエア42丁目駅から地下鉄に乗ってグランド・セントラル駅で降り、マンハッタンの東端、イースト川に面する国連本部ビルに向かった。
ビル入り口は閉鎖されており、職員は全員、地下会議場に集められた。国連ビルへの攻撃を恐れたためだ。それから昼近くまで待機を命じられる間、CNNは「ワシントンが狙われた模様」「行く先不明の飛行機が数機あり、当局が調査中」などの速報を流し続けた。国連職員は紛争や大規模な人道的危機への対処に慣れており、いま目の前で起きていることが未曽有の大事件であることは皆が理解できた。だが、理解できたのはそこまでで、アメリカの中心部に対する意図的かつ組織的な攻撃がどのくらい大変なことで、その結果世界がどう変わるのか、だれも想像さえ出来なかった。
正午前に、国連本部は閉鎖のまま職員は帰宅を命じられ、川端さんは徒歩で「ポート・オーソリティ」を目指した。ターミナルが見えるタイムズ・スクエアまで行くと、バスの発着場がある建物はすでに閉鎖されていた。ニュージャージーにつながるジョージワシントン橋も通行止めになっており、やむなく近くの路上で夕方まで待機した。ツインタワーの様子は高層ビルの陰になって分からなかったが、タワーの方向から黒煙が高く上り続けているのが見えた。周りを警察車両や救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら走り回り、頭上には米軍の戦闘機が飛び交い、マンハッタンは戦時下のように騒然としていた。夕方まで路上に座り込んでいると、ようやくバス会社の職員が出てきて、「ニュージャージーに帰る人はペン・ステーションからの列車に乗るように」と拡声器で知らせていた。マディソン・スクエア・ガーデンがあるペンシルベニア駅まで歩き、ニューアーク空港駅にたどり着いた。さらにバスに乗り継ぎ、自宅近くのショッピングセンターから家族の迎えの車で帰宅したのは、すでに深夜に近かった。
攻撃に使われた4機の旅客機は、いずれもボストンなど東海岸の空港から西海岸に向かう国内便だった。セキュリティの厳重な国際便を避け、燃料を多く搭載する西海岸行きを選んだのは、犯人たちに破壊力を最大化する狙いがあったことを示している。だが、それよりも川端さんの神経に引っかかったのは、アメリカン航空2機、ユナイテッド航空2機のいずれもが、ボーイング社の機体を使っていたことだ。ボーイングの機体はコックピットの仕様が共通しているため、その操縦法を覚えれば、違う航空会社でも乗りこなすことができる。だがそのことより、かすかに気になったのは、川端さんが和平交渉の任務で通うようになったアフガニスタンの国営航空会社であるアリアナ航空が、同じボーイング社の機体を使っていたことだった。
米国とアフガンを結ぶ線
もちろん、その時点で川端さんが、アフガンと同時多発テロの結びつきを直観したわけではない。米政府が同時多発テロの首謀者として過激派テロ組織アルカイダを絞り込んだのは数日後のことだ。
米国人のほとんどが、地球の反対側にある陸封国アフガンを制圧するタリバンのことを知らず、そのタリバンが匿うオサマ・ビンラディンの名前を聞いたこともなかった。だが、川端さんの脳裏には、時間を遡って、同時多発テロに向かうアルカイダの軌跡が、鮮明に浮かび上がった。当時。朝日新聞の東京本社にいた私も、ビンラディンとタリバンの名前を聞いて、その軌跡がおぼろにつかめた。それは、その数年前、アフガンから帰国する途中に日本に立ち寄った川端さんと会って、アフガンの著しい変化について詳しい話をうかがったことがあったからだ。
米ミシガン州のホープ大、コロンビア大大学院修士を経て川端さんが国連に入ったのは1988年のことだ。政治安保理局に入るまで、自分の職場が旧ソ連の「縄張り」であることは知らなかった。国連は、世界政府のように国家の上に立つ「超国家組織」ではなく、加盟国の利害を調整する「国家間組織」に過ぎない。当然、大国は自国出身者を国連職員に送り込み、その情報力や影響力を強めようとする。もちろん、国際機関の職員は中立性を求められるが、陰に陽に、自国との結びつきがにじむのは、避けられない。
いつしか、国連総会はアメリカ、PKOを担当する特別政治局は英国というふうに、国連事務局の中にも「縄張り」ができていた。川端さんが属した政治安保理局は旧ソ連の影響下にあり、冷戦が終わるまで、旧ソ連や東独、ポーランド、ハンガリーなどの出身者が要職を占めていた。
国連安全保障理事会の担当になっても、川端さんには書類整理の仕事が割り当てられ、安保理に立ち会うことすらほとんどなかった。
様変わりしたのは、ベルリンの壁が崩れ、1991年12月に旧ソ連が崩壊してからだ。
その翌日、たまたま乗り合わせたエレベーターで、ソ連出身の政治局長は、川端さんの手を両手で握り、頬を紅潮させて「カワバタ、これから一緒にがんばっていこう」と語りかけた。それまで、声もかけてもらえないような上司だった。
冷戦後は、川端さんも、当たり前のように安保理に出席し、非公式協議にも参加して記録を取るようになった。川端さんは1994年から2年間、同年に設立された「安保理改革に関する特別作業部会」を担当した後、1995年の初夏に安保理を離れて、アフガニスタンでの和平交渉の担当官に起用された。しかし当時は、アメリカの無関心や周辺国の介入のせいで、和平交渉は難航を極め、川端さんが当初仕えた二人の事務総長特使は相次いで任期半ばでやめていった。
たが、1995年と96年にサウジアラビアで米軍施設爆破事件が連続すると、アフガニスタンを取り巻く状況が一変した。犯行はタリバンに庇護されていたアルカイダの仕業とみられ、アメリカのクリントン政権の注意を引いたのである。アフガン紛争への注目度の高まりを受けて、当時のコフィ・アナン事務総長は1997年7月に、アルジェリアの元外務大臣ラフダール・ブラヒミ氏をアフガン和平担当の事務総長特別代表に任命した。ブラヒミ氏は、レバノン紛争の終息に向けたタイフ和平合意や、アパルトヘイトの廃止をうけた南アフリカでの総選挙の監視などで実績を積んでおり、国連による紛争解決の「切り札」と目されていた。ロシアなど紛争の関係国政府も、「ようやく重量級の交渉者が登場した」と評し、大物交渉者の任命を歓迎した。川端さんはブラヒミ氏の補佐官として、アフガン和平工作のため、現地や、ワシントン、モスクワ、ローマ、リヤド、テヘラン、ニューデリー、東京などを訪れる特使に同行するようになる。アフガン担当官として訪れた国は、のべ63ヵ国にのぼった。
タリバンの台頭
アフガンでは、1979年の侵攻以来駐屯していた旧ソ連部隊が1989年に完全撤収した。それまで米国はパキスタンのペシャワールやクエッタなどの難民キャンプを拠点に中央情報局(CIA)が巨額の資金や大量の武器を投与し、10代から20代の若者たちを「ムジャヒディン(聖戦の戦士)」と呼ばれる兵士に仕立て上げ、アフガン各地に送り込んでゲリラ戦を闘わせていた。援助の対象は、ほとんどがイスラム教原理主義勢力であり、穏健な民主主義者は意図的に排除された。アメリカは20年後に、この選択を悔やむことになる。
旧ソ連の撤退で、米国は関与をやめ、それを引き継いだのが地域の有力国であるパキスタンとサウジアラビアだった。
だが、パキスタンとサウジアラビアは当初、ムジャヒディン各派の中でイスラム教スンニ派の原理主義勢力を集中的に支援して、同勢力よるアフガン政権の樹立を画策した。だが、両国の思惑は実を結ばなかった。旧ソ連軍が撤退して政権が目の前にちらつき始めると、ムジャヒディン各派は骨肉の権力抗争を始めて、内戦を重ねて国土を荒廃させた。
パキスタンは1994年になると、いつまでも政権を握れないムジャヒディンに業を煮やして、新たなスンニ派イスラム教原理主義勢力の創設に踏み切った。そのころ国連には、現地のオフィスから「難民キャンプでアフガン青年たちの集まりが見られる」との報告がしばしば届いた。この青年組織が最初に注目を浴びたのは、1994年の夏に彼らがアフガン第二の都市であるカンダハールで蜂起して、同地を支配する軍閥を打ち負かしたときだ。果ての無い戦乱に疲れたアフガン国民は当初、新たな青年組織によるイスラム法に則った厳格な統治を歓迎した。青年組織は抗争を繰り返すムジャヒディンを次々と打ち破り、1996年の秋にはカブールを含む国土のかなりの部分を支配下に置いた。
この青年組織は自らを「タリバン」と呼んだ。これはもともと「学生」を意味するアラビア語「タリブ」の複数形で、イスラム神学校(マドラッサ)で学ぶ若者たちを指す。彼らが急成長を遂げたのは、ムジャヒディンを見限ったパキスタン軍統合情報局(ISI)が、資金、武器、戦法の面で全面的にバックアップしたからだった。
タリバンは1998年には、国土の7~8割を実効支配するまでになった。しかしそれ以降、タリバンの拡張は止まり、戦闘は膠着状態に陥った。これは、旧ソ連軍に頑強に抵抗して「パンジシールの獅子」と恐れられたマスード将軍が率いるタジク人勢力を、タリバンが攻めきれなかったためだ。戦線が膠着すると、タリバンの勝利に期待したアフガン国民の間に厭戦気分が広がり、タリバンは戦闘の維持に必要な兵員や資金を集めるのに困難をきたすようになった。
堅陣を落とせずに苦慮していたタリバンに救いの手を差し伸べたのが、サウジアラビアに大富豪の息子として生まれ、旧ソ連支配下の当時はムジャヒディンを支援したことで知られるビンラディンだった。彼は、一時パキスタンから帰国したが、1990~91年の第一次湾岸危機・戦争後に王家を批判したためにサウジアラビアから追放された。その後はスーダンを拠点にしていたが、アメリカの追及が厳しくなると1996年にタリバンの支配が広がるアフガンに拠点を移した。
アルカイダはタリバンに、最初は資金を提供し、次には兵員不足で悩むタリバンにアラブ諸国の戦闘員を送り込んだ。アルカイダは最後に、原理主義ではあるがアフガニスタン以外に興味を示さなかったタリバンに、反欧米イスラム過激主義を広めた。
川端さんは、ブラヒミ氏が正式の担当特使になる前の95年夏から、前任の特使と共にタリバン幹部と接触し、和平への感触を探った。
「幹部といっても30代になるかならないかの年齢で、その若さに驚かされた。我々はアフガンの和平を汚したムジャヒディンをやっつけ、真のイスラム国家を樹立すれば、神学校に戻る。政治にはかかわりない、と目を輝かせて真剣に言っていたのが印象的だった」
彼らはパレスチナ自治政府の指導者アラファトの写真を見せてもその名を知らず、国際情勢に疎く、関心もなかった。それが変わるのは、アルカイダが浸透して以降だった、と川端さんは指摘する。
それを象徴するのが、9・11事件の半年前に起きたバーミヤンの石仏破壊事件だ。文明の十字路として栄えたアフガンにはもともと、外来の文化や宗教に寛容であり、サウジアラビアのワッハーブ派のような偶像崇拝を禁じるイスラム原理主義とは軌を一にしない。タリバン指導者のオマール師自身、1990年代には、国連に対して石仏に手を付けないことを約束していた。そんなオマール師が石仏破壊まで突き進んだことは、タリバンが頭の中までアルカイダに乗っ取られたことを意味する。国連関係者は、衝撃と共に、そう受け止めた。
タリバンが石仏を破壊したとき、アフガニスタンを巡る歴史の歯車が再び回り始めた。彼らが掲げる原理主義の矛盾が一挙に噴き出し、アフガニスタンを国際政治の表舞台に押し出したのだ。
北部同盟を率いたマスード将軍は2001年9月9日、TVジャーナリストを装った2人のアラブ人よる自爆テロで暗殺された。旧ソ連軍による幾多の猛攻をしのぎ、タリバンとの7年にわたる死闘を戦い抜いたマスードであったが、綿密に計画され、着実に実行された自爆テロを予想すらできなかった。同時多発テロ事件が起きる2日前のことだ。全国制覇に向けた最後の障害を取り除きたいタリバンと、対米テロを実施するための安全地帯を求めるアルカイダのとの間の、相互の利益にかなった「取引」であった。
こうして9・11事件から過去にさかのぼれば、すべては「その日」に向けて、後戻りできない布石が着々と打たれていたことがわかる。
テロのグローバル化
こうして21世紀は、まず「テロのグローバル化」によって幕を開けた。アルカイダによるテロ攻撃はそれまでにもあったが、米国の認識は、「厄介な脅威だが、被害はローカル、あるいはリージョナルなものに留まる」というもので、米本土の中枢を直接攻撃するだけの意思も能力もない、とみるのが一般的だった。
アルカイダは98年にタンザニアとケニアの米大使館を爆破し、99年にはイエメン沖で米艦コールを襲撃する事件を起こした。国連安保理はそのつど、テロを非難し、犯人の司法機関への引き渡しを求めたが、アルカイダを「客人」と見なすタリバンはそれを拒んできた。
その頃から米国も、ようやくアフガンの潜在的脅威に気づき、国連が仲介してタリバンと接触し、テロリストの訓練所とみられる施設の閉鎖を要請するとともに、ムジャヒディン各派との和平に動くよう要請するようになる。それがブラヒミ氏の起用につながり、川端氏も、そのもとで、各派の宗教指導者同士を会わせて和平の糸口を探る作業を進めてきた。だが、米政権の関心は場当たり的で、しかも情報も不十分だった。
のちに首相となる小渕恵三氏が外相に就任した1997年、国連特使になったブラヒミ氏がワシントンに行って米側と情報交換することになった。タリバンについて、米政府が知っている「機密情報」をブリーフィングするという。
川端さんはブラヒミ氏と一緒に、国務省の窓のない部屋に通され、CIAや米国防総省の制服組から30分の説明を受けた。
驚いたのは、その情報量の少なさと質の低さだった。おそらくは、米側が軍事支援をしているパキスタンの軍統合情報部からの情報に頼っているのだろう。インテリジェンス機関はないが、人道支援を通して日常的に現地の情報を集めている国連にとって、あまりにタリバン側に偏った一面的で、皮相な情報が多かった。
川端氏がそう指摘しようとすると、横にいたブラヒミ氏が川端氏の肩に手を当て、発言を制した。国連としては、米政権を敵に回すわけにはいかない。彼らの情報不足を指摘しても、敵愾心を買うだけだ。国際外交の場で鍛え抜かれたブラヒミ氏は、そう諫めたのだろう。もっとも、ブラヒミ氏自身も国務省での説明の後で、「アメリカ政府が国連にタリバン情報を隠していることを願う」とため息交じりにつぶやいた。
米国の「フランケンシュタイン」
国際外交の場でタリバンはよく、「米国が生み出したフランケンシュタイン」と呼ばれた。人造人間を生み出した科学者の悲劇を描く英国の作家メアリー・シェリーの作品名だ。「フランケンシュタイン」は、実は科学者の名前で、人造人間は作品内では「怪物」と呼ばれるだけだが、その後は物語を離れ、被造物をその名前で呼ぶようになった。
旧ソ連の占領時代に、CIAはムジャヒディンと呼ばれるゲリラ戦士を養成した。その選抜の基準は「優秀な戦闘員」であり、「使い勝手のいい兵士」だった。将来樹立する政権の基盤になる民主的な穏健勢力は意図的に排除された。これは、アメリカの唯一の関心事がアフガニスタンからの旧ソ連軍の排除であり、神がかりで命を惜しまず「無神論者」と戦う原理主義者こそが対ソ戦略にとって好都合だったためだ。旧ソ連軍が撤収すると、米国の関心は急速に薄れ、アフガンは米国にとって、「忘れられた国」になった。
アメリカが去った後に、パキスタンやサウジといった周辺国が、それぞれの身勝手な目的のためにアフガニスタンへの介入を強めた。パキスタンは、後背地であるアフガニスタンにイスラム原理主義政権を打ち立てることによって、建国以来の宿敵であるヒンズー教のインドへの抑止力を強化することによって、対インド戦略における「戦略的深み(Strategic Depth)」を達成しようとした。サウジは、スンニ派原理主義勢力によるアフガン政権の樹立によって、シーア派の盟主であるイランを側面からけん制しようとした。両国は当初、ムジャヒディン各派の中の原理主義勢力を支援していたが、彼らが政権を取れないと見ると、新たな超原理主義グループであるタリバンを新たに生み出した。タリバンはその後、アルカイダと結託することにより先鋭化し、周辺国の意に反して元々の創造者に牙をむき始めた。これが「フランケンシュタイン」と呼ばれる所以だ。
実は、米国が時々の利害関係でテコ入れし、育てた軍事勢力が米国に歯向かうといった「ブーメラン効果」は、これが初めてでも最後でもない。1990年に父親ブッシュ大統領がパナマ侵攻で逮捕するに至ったノリエガ将軍も、91年の第1次湾岸戦争で戦ったイラクのフセイン大統領も、もとはと言えば米国の軍事的肩入れで頭角を現した強権政治家だった。
パキスタンに逃れたアフガン難民の支援について、当時のブレジンスキー米大統領補佐官は、日本政府に資金面で協力するよう「要請」した。川端さんにとって、ブレジンスキー氏はコロンビア大学大学院時代の恩師である。彼は日本の支援を「戦略的人道支援」と呼び、暗にアメリカがムジャヒディン各派への軍事支援に集中する一方で、軍事に関われない日本がアフガン難民への支援を肩代わりするという日米の役割分担を示唆した。
同時多発テロの後、息子のブッシュ大統領はアフガニスタン戦争に突き進み、タリバン政権を崩壊させたが、その後の国家再建には少しも興味を示さず、その作業をもっぱら国連に任せて、2003年には次の対イラク戦争の準備に向かうことになる。アメリカの移り気でとりわけ後悔されることは、ブッシュ政権がアフガン全土への国際治安支援部隊(ISAF)の展開支援を約束しておきながら、約束を守らなかったことであった。結果として、ISAFの展開はカブール周辺に限定され、後のタリバンの復活を許すことになる。テロ支援政権を倒しさえすれば、一夜にして安定した民主主義国家が生まれると信じる、歴代アメリカ政権の「無邪気な世界観」の限界であった。
川端氏は、ブラヒミ氏のもとで、暫定統治の枠組みづくりに奔走し、2001年12月にはアフガン諸派による和平と復興のための国際会議で「ボン合意」成立に漕ぎつけるのだが、本題から逸れるので、ここでは触れない。
川端氏の論点はこうなる。テロのグローバル化は、21世紀の幕開けとなる同時多発テロ事件で、すでに顕在化していた。脅威はすでに、ロ-カル・リージョナルな範囲に限定することはできず、どんな軍事大国であっても、根絶できない存在になっていたのである。
1国では対処できないこうした場合、国は単独ではなく、国際機関をいかに利用するかを考え、その協調のもとで、それぞれの「国益」を追求するしかない。それが川端さんの基本的な考えだ。
日本の政治家はよく。国連事務局を訪ね、「日本は国連のために、どのような支援や協力ができるのか」と尋ねてきた。だが、それでは発想が違う、と川端さんは感じてきた。
国連は、超国家組織ではなく、加盟国の利害を調整して合意を生み出すための器に過ぎず、加盟国の利害が衝突し、あるいは妥協する国際政治の闘技場だ。当然、そこには、利害や得失をめぐる熾烈な駆け引きがあり、加盟国の意思を超えた合意があらかじめ存在するわけではない。日本がなすべきことは、国連にお伺いを立てることではなく、日本が国連を通して何を達成したいかを考え実行することだ。
どの国も正面切っては言わないが、「自国のために国連をどう利用できるのか」を自らに問い、「自国のビジョンを実現するために、国連をどう協力させられるか」という問いを判断や行動の指針にしている。長く国際機関の実務を担ってきた川端さんは、そう考える。
戦時から「国際機構」を構想
今回のコロナ禍について川端さんは、「100年に1度の危機」と見る。
1月には、「中国からの流入を食い止めれば収まる」と思い、その予想が「ダイヤモンド・プリンセス号」の集団感染で裏切られ、「中国で感染が抑えられれば局地的な流行で済む」という2月末の見通しは、3月の欧州への感染拡大でひっくり返った。
その時々のメディア情報をベースにした予想や判断が、次々に覆される。前例に囚われる官僚や、決断のできない政治家は、未曽有の感染症の前に立ちすくんだ。感染病の専門家さえ、未知のウイルスを前に見解を二転三転させた。これまでに、これほどの広がりとインパクトでそうした経験をしたことはなかった、という。
そのうえで、川端さんは、2度の世界大戦と、その戦争のさなかに構想された国際機関について言及した。
最初は第1次世界大戦と、その後にできた国際連盟だ。19世紀までの戦争は数か月か長くても1~2年で決着し、犠牲になったのも職業軍人が多かった。だが初の大戦は4年余りに及び、戦死者だけで推計1600万人という膨大な犠牲をもたらした。大戦の後半にはスペイン風邪で兵士や有力政治家が次々に倒れ、「国家を指導できるような国際機関の創設を」という、それまでの価値観ではありえないような枠組み転換を求める声が沸き起こった。
「しかもその構想が発表されたのは、まだ大戦中の1918年1月、ウッドロー・ウイルソンが米議会演説で発表した14カ条の『平和原則』でした。彼はその最後の14項目目に、『国際平和機構』の設立を掲げた」
しかし、人類初の平和のための国際機関である国際連盟は、第2次世界大戦の勃発を防げず、20年足らずで破綻した。世界は1939年、ドイツのポーランド侵攻によって再び大戦に突入し、1941年の日本による真珠湾攻撃で戦域は太平洋に拡大した。
この時も、太平洋戦争が始まる前の1941年8月に、フランクリン・ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、「大西洋憲章」に署名し、「一般的な安全保障のための仕組みの必要性」を確認している。
連合国は、1944年8月から米国の首都ワシントンの郊外にあるダンバートン・オークス邸で、戦後の国際機構について素案をまとめ、45年4月から6月にかけ、サンフランシスコで開かれた「国際機構に関する合同会議」で、国際連合の憲章を起草した。
「この期間は、沖縄でいえば、4月1日に米軍が本島に上陸し、6月23日に沖縄守備軍の組織的な抵抗が終わり、沖縄戦だけで20万人近い人々が亡くなった時期にあたります。戦場で人々が殺し合っている時期に、戦後の秩序について取り決めたのは、もう二度と、こんな大規模殺戮を許してはならない、という強い意思の表れだったと思います」
川端氏はそう指摘する。大戦中に両国際機関の創設準備がなされたのは、国際組織によって主権を制限されたくないという国家の本音を抑え込むには、政治指導者が戦争の痛みをじかに感じるこの時期しかなかったためだ。
「戦時中に産声を上げた国連は、過去の戦争の悲惨さを嘆く場でも、将来の理想の平和を語る場でもありません。国連の使命は、いま、そこにある紛争に、現実の政治的制約の中で対処することです」
国連の本質を、川端氏はそう説明する。興味深いのは、第1次、第2次大戦のいずれにおいても、米国の指導者が戦時中に、「国際機構」を提案していることだ。米国は、議会の抵抗もあって国際連盟には参加しなかったが、世界でも有数の大国として台頭した米国が、なぜ、自らの手を縛りかねない国際機構にこだわったのか。そこには、国際機構に対する米国の「二面性」がある、と川端さんは言う。
「私はよく、『アメリカほど国連が大好きな国はない。そしてアメリカほど、国連が嫌いな国もない』と言います。アメリカのような大国が、自ら主導しなければ、独自の財源や武力を持たない国際機構は非力です。しかし、大国は、自らの主権を制限するような国際機構の規制には反発する。戦後のアメリカは、振り子のように、その二つの極を行ったり来たりしてきました」
20世紀前半の米国は、孤立主義と国際協調主義の間を揺れ動き、真珠湾を攻撃されたことで太平洋戦争にコミットして以降は、戦後の国際機構づくりを主導した。それは決して偶然ではない、と川端さんはいう。
「移民国家で、民主政治の土台があり、しかも英仏のように、過去の歴史のしがらみもなかった。歴史の浅い国だからこそ、国際機構を提案できた。しかも、戦時中から戦後の秩序を構想しなければ、こうした国際機構はできないことに気づいていた」
もちろん、冷戦期には国連安保理も機能しなかった。東西陣営は、自らが関与する紛争について、常任理事国に与えられた拒否権を行使して、加盟国を拘束する決議案を葬ってきたからだ。ベトナム戦争においても、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻においても、国連安保理は沈黙するしかなかった。
機能不全に陥った安保理を補ったのは、国連憲章に根拠を持たない、丸腰の軍人による即興の平和維持活動であった。活動の最初の例は、1948年の第1次中東戦争後の停戦監視のために結成された国連休戦監視機構(UNTSO)だ。このような活動は、地域紛争が米ソ直接対決にエスカレートすることを恐れる国際社会の支持を得て、様々な紛争地で活用されるようになり、後に一括して国連平和維持活動(PKO)と呼ばれるようになった。スエズ危機が1956年に勃発すると、国連総会は「平和のための結集決議」の手続きに従って緊急総会を招集して、数千人の軽武装の兵員を含む本格的なPK0である第一次国連緊急軍(UNEFI)を派遣した。その後もPKOは地域紛争の拡大防止に実績を重ね、冷戦後は文字通り、国連による紛争抑止、拡大防止の強力な手段になった。
だが米国は、米軍が他国の指揮系統に置かれることを嫌ってPKOには参加せず、距離を置いてきた。父親のブッシュ政権は90年の湾岸危機で国連安保理を最大限に利用し、翌年の第1次湾岸戦争でイラクをクエートから撤退させた。しかし、93年のソマリア紛争の介入に失敗して以降、米国は国連とは距離を置き、自らの指揮のもとに有志を結集する「多国籍軍」による介入に傾いていく。
息子のブッシュ政権によるアフガニスタン戦争、イラク戦争はその最たるもので、後者においては国連安保理、北大西洋条約機構(NATO)の支持もないまま武力行使に踏み切った。
今のトランプ政権は、「アメリカ・ファースト」を唱え、明らかに国際協調と距離を置いて、2国間交渉で緊密な関係を築いた国とのみ協力する傾向を強めている。だが、川端さんは、米国の政治学者ジョン・アイケンベリーの著書「戦後構築の論理と行動」などを引きながら、アメリカが国際機構を使った場合と使わなかった場合を比較すると、明らかに前者の事例の方が時間と労力を要するものの、結果としてうまくいく場合が多い、と指摘する。
「同じことをやるとしても、単独で行動するより国際機構を使う方が、正統性があり、他国を説得し、協力を仰ぐこともできる。米国の力が相対的に弱まれば弱まるほど、国際協調路線を取る方が国益にかなう、と思う」
コロナ禍と国際協力
今のコロナ禍に匹敵する規模の国際危機を思い浮かべれば、2度にわたる世界大戦以外には思い浮かばない、と川端さんはいう。もちろん戦争と疫病は違うが、世界的な広がりとインパクトの大きさ、中長期的な見通しの不確実性は、戦後には経験したことのない危機だ。では2度の大戦の時と同じように、危機のさなかに、危機後の国際協調を構想する動きはあるのか。目立つのはむしろ、中国寄りと非難してトランプ政権が7月にWHO(世界保健機関)からの脱退を通知するなど、逆に分断に向かう流れだ。ワクチンや治療薬の開発も、協調の動きは一部にとどまり、むしろ自国優先や、「アフター・コロナ」で覇権を握ろうとする姿が目立つ。米中の覇権争いの中で、日本はどう振る舞うべきなのだろうか。
「日本の戦後外交の柱は日米関係重視、アジア近隣外交の推進、国連中心主義の3本柱でしたが、実態は米国が認める範囲でアジア外交、国連外交を行うというものでした。しかも国連については、『協力する』と言いつつ、受け身の姿勢だった。加盟国の集まりである国連を利用して、自らのビジョンを実現する、という発想に欠けていた」
川端さんはそう指摘し、もし日本が国際協調の促進者としての役割を果たすのであれば、まず自らのアイデンティティを確立して、世界の中での立ち位置を明確にする必要性を訴えた。外交や安全保障をアメリカに依存する限り、グローバル対話の促進者としての役割はおぼつかない。
そのうえで川端さんは、もし日本がWHOをはじめとする国連機構の改革を求めるなら、
1.日本は国連で何がしたいのか - 国連を通して実現すべき具体的なビジョンを示す
2.目的達成のために、事務局長などのトップに人材を送る
3.同時に、邦人の一般職員の増員に向けた具体的目標と行動計画を設定する
4.日本国内で、邦人の国連職員を増やした場合、どのようなメリットがあるのかを説得したうえで、国連に働きかける
などの具体的な行動が必要だという。漫然と国連外交の強化を願うのではなく、国連で達成すべき目的と国益との関係を理解したうえで、人事と予算の執行権を握る国連事務局へ日本人を送り込む具体的措置を、政府や国会が一丸となって進める必要がある。
日本人の国連職員は30年余り、100人前後で推移し、少しも増える気配はない。他方中国は急速に送り込む人材を増やし、今は国連食糧農業機関(FAO),国際民間航空機関(ICAO)、国際電気通信連合(ITU)、国際連合工業開発機関(UNIDO)などの国際機関のトップに人材を送り込んでいる。
「潘基文事務総長の時代に、国連はPKOの物資供給や輸送など、ロジスティックスを担当する局長のポストを日本に打診したことがあった。PKOの実態に精通できる重要なポストなのに、外務省は『全面的にバックアップできる余力がない』と断った。もし日本が国連中心主義を本気で実施するのなら、願ってもないポストでした。」
米中の覇権争いが続く今でも、日本は国際機関を利用して独自の姿勢を打ち出すことが」できる、と川端さんは言う。
「たとえば中国による香港の治安への直接介入について、日本は名指しをしなくても、人権や自由を保障すべきと国連総会で演説し、正論を主張することはできる。国際機関では、誰もが反論できない『自由・人権の擁護』、『民主主義の促進』、『武力による国境変更の禁止』などの普遍的な原則が確立しています。日本はこのような建前を国連で堂々と主張しつつ、2国間外交で経済関係の重視など本音を伝えるような、したたかな外交を推進すべきではないでしょうか。トランプ政権が『自国第1』を唱えるなら、日本はアメリカから一歩離れて、独自のアイデンティティを築き、それを国際機関で堂々と主張すればいいのではないでしょうか」
上智大教授・東大作さんに聞く「人間の安全保障」
コロナ禍における日本の役割とは何か。これまで世界各地の紛争を調査し、「平和構築」の実務にも携わった上智大教授の東大作さん(51)に8月31日、ZOOMで話をうかがった。
東さんはNHKディレクターとしてNHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか?ベトナム戦争・敵との対話」(放送文化基金賞)など数々の作品を制作したあと、2004年に退職し、カナダのブリティッシュコロンビア大学で修士、博士号を取得。その前後には紛争各地で調査に従事し、2009年には国連のアフガニスタン支援ミッションの政務官などを務め、和解最高評議会や、日本政府が50億円を拠出してできた和解基金づくりなどに奔走した。
その後、東大准教授を経て2012年から2年間、国連日本政府代表部の公使参事官を務め、停戦合意後には、紛争当事者をできるだけ排除しない「包摂性」を重視するよう各国に働きかけ、国連総会決議に盛り込むよう尽力した。そうした実績を重ね、上智大グローバル教育センターに招かれた。メディア、国際機関職員、外交官、研究者と様々な経歴を重ねながら、一貫して紛争解決と平和構築の課題に取り組んできた。
コロナ禍が始まってから、東さんはメディアなど多くの場で、「人間の安全保障」による取り組みを訴えてきた。
国連は2005年の世界サミットで「人間の安全保障」について話し合い、その結果を文書にまとめた。これは、「すべての人々が、自由にかつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利」を尊重し、「すべての個人、特に脆弱な人々が、すべての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させるために平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有している」ことを認めた。
つまり「人間の安全保障」とは、分野横断的な脅威に対し、「貧困」や「恐怖」、「欠乏」から人々が自由となるように、その生存・生活・尊厳を守ること、を指している。
国連総会はさらに2012年9月に「人間の安全保障決議」を採択し、この流れを定着させて今に至っている。
冷戦時まで、「安全保障」といえば国家の自衛・防衛を意味する「国家安全保障」が中心だった。しかし、冷戦後は「国家」が形のうえでは存続していても内戦や民族・宗教紛争が頻発して難民・国内避難民が生まれて苦しむ人が続出した。しかも、戦争や内戦だけでなく、自然災害や気候変動による環境の変化、感染症など、同じように人々の命や暮らしを脅かすグローバルな脅威が増えつつある。
「人間の安全保障」は、安全保障を「人間」を主体に捉え直す考え方で、必ずしも従来の「国家安全保障」を否定するものではない。むしろ、時には「人々」を犠牲にしたり、あるいは1国単位で考えたりすることのあった国家安全保障の限界を補い、あるいは相互の協調によってできる限り人々の犠牲を軽減して、補正しようという動きと言ってもよいだろう。
外務省は、この点を明確にして、「人間の安全保障」を、「国家の安全保障を補完する概念であり、人間一人ひとりに着目し、人々が恐怖と欠乏から解放され、尊厳ある生命を全うできるような社会づくりを目的とするものです」と述べている。日本などが主導して1999年には、国連に「人間の安全保障基金」が設置され、100以上の国・地域でプロジェクトを支援してきた。2003年にはODA大綱を改訂して「人間の安全保障」の視点から支援の見直しも進めてきた。
東さんは、今回のコロナ禍は、まさしくこの「人間の安全保障」の視点が必要な災禍だという。
「この考えを提唱し、推進してきた緒方貞子さんは、冷戦後には、自然災害や気候変動、感染症など地球規模の危機が頻繁に訪れると考えていた。地球規模の危機は、1国だけでは対処できず、解決もできない。今回のコロナ禍では、1国で感染が収束しても、外国で感染拡大が続き、それが再び国内に流入すれば再拡大する。全世界が危機から逃れなければ、自らも安全になれない。すべての人が安全になるまで、一人も安全にはなれない。そうした地球規模の危機の典型だと思います」
とりわけ輸出産業に経済を頼る日本の場合、コロナ禍がもたらす長期のグローバルな打撃は、経済の停滞や雇用の縮小をもたらす。この国の命・雇用・暮らしを守るためにも、国際協調による危機の克服を目指す「人間の安全保障」の考え方が欠かせない、と東さんはいう。
「グローバル・ファシリテーター」とは
では、その協調に当たって、日本ができることは何か。ここ数年、東さんは、「グローバル・ファシリテーター」こそが、日本の役割だろうと唱えてきた。
「ファシリテーター」とは「促進者」の意味で、一般には国際会議やシンポジウムなどの場で対話を活発化し、中立的な立場で進行役を果たす人々を指す。
東さんはこれまで、アフガニスタンや南スーダン、イエメン、シリアなどの紛争地を頻繁に訪れ、各紛争当事者の言葉に耳を傾け、それを和平合意や停戦合意後の平和構築に活かす取り組みを続けてきた。そうした経験を通して気がついたのは、戦後一度も海外で自衛隊員が人を殺したことがない特異な日本の立場だった。中東やアフリカ、アフガニスタンなどでは、すでに日本が、武力で紛争に介入したり、紛争の当事者になったりしたことがないことは、広く知れ渡っている。そうした中立的な立場で紛争当事者各派の意見を聞こうとすれば、素直に心を開いてくれることが多かった、という。
「これは、平和国家として、75年にわたって武力を行使せず、紛争地の復興や難民支援にあたってきた日本の歴史的な資産だと思う。そうした立場を活かせば、グローバルな危機に当たって、利害が対立する各国の対話の『促進者』にもなれると思います」
もともと旧社会主義の国だったロシアや中国と、人権や民主主義を基盤とする米国などでは、価値観の対立がある。さらにその米国も、民主党政権では多国間協調に傾き、共和党政権では「多国間協調は国益に沿わない」という方向に傾くなど、政権による振れ幅が大きい。さらに米国は、どの政権においても紛争に介入してきた過去があり、「国際協調」を唱えても、すぐには聞き入れてもらえない限界も抱えている。
自由や人権、民主主義などで米国と共通の価値観に立ち、日米協調と共に、欧州連合(EU)などとマルチの外交・通商交渉でも努力を重ねてきた日本は、いずれに対しても、ものを言いやすい立場にある、と東さんは言う。実際、日本はかつてカンボジア和平において独自の役割を果たし、今も南スーダンの和平に向けて地道な努力重ねている数少ない国だ。
旧ソ連や米国の介入によって紛争が泥沼化したアフガニスタンでも、「ペシャワール会」で灌漑活動を進めた故・中村哲さんらの尽力によって、日本には絶大な信頼が寄せられていることを、東さんは肌で感じてきた。
紛争地域における調停者としての役割について、政府の一部の人からは、「失敗した時に、税金の無駄になってしまう」という消極的な意見もあった。ただ東さんの考えるファシリテーターは、紛争当事者の間に入って調停を行い、双方に調停案を説得するイメージではないという。むしろ、紛争当事者が継続的に対話を行うことで、当事者自身が解決策を探していく、そんな対話のプロセスを支援する役割だ。
「もともとファシリテーターは合意という結果を残せなくても、『対話』によってそれぞれの立場を相互理解し、協調点を見いだせれば、それだけでも成果といえる。対話のプロセスそのものが大事で、結果が出せなくても感謝され、信頼される。もし政府が『ファシリテーター』を国家戦略として位置付けるなら、外務省に限らず、防衛・農水・厚労・文科など、各省庁の現場でできることはいくらでもあるはずです」
「ファシリテーター」としてかかる費用は、人件費や旅費、会合の場所提供や警備など、インフラにかけるよりも、ずっと安い。
「トランプ政権は温室効果ガスの排出規制を決めた『パリ協定』や、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)からの離脱を決めた。日本はその間、多国間の枠組みを維持しようと努めてきた。そうした多国間の枠組み重視の姿勢は、各国からも評価されていると思う」
そう語ったうえで、コロナ禍における日本の役割について、東さんはこう提案する。
「コロナ禍についていえば、日本がヨーロッパの国々などと協力しながら、将来ワクチンができた場合にそれを世界全体に速やかに普及させたり、有効な治療薬を共有したりする体制づくりを行うべく、対話を促進していく役割を果たすことはできるはず」
米国と中国の関係悪化が続く中、まさに日本が主導的な役割を果たす気概を持つべきだと東さんは強調する。
「平和」への希求
実務と研究の両輪で「平和」を探求する東さんの原点には、ご両親の被爆体験がある。
広島に生まれ育った東さんの母親の家は爆心地から2・4キロにあった。
爆発の瞬間、4歳だった母は部屋の一方から他方に吹き飛ばされた。伯母は祖母を連れて4歳の母親を背負い、爆心地の方へ向かった。皮膚が垂れ下がった人や眼が飛び出た人が逃げてきた。伯母が、祖母を必死で止めて来たのとは反対の方向に逃げて、かろうじて生き延びた。父親は一度も自身の被爆体験を語ったことがなく、「もう忘れた」というのみだ。だが母方の祖父は反核運動の闘士となり、東さんも母や親せきから体験談を繰り返し聞き、いつかは平和に関わる仕事がしたいと思っていたという。
NHKディレクターとして手掛けた「我々はなぜ戦争をしたのか?」は、ベトナム戦争を戦ったかつての北ベトナム、米国の指導者が1997年に集い、なぜ戦争を拡大させたのか、なぜ紛争を収拾する機会を見失ったのかを話し合う対話を追った番組だった。
「取材の過程で、対立する指導者がいかに相手を見誤り、紛争回避の機会を失い続けたのかを知った。指導者の誤解や対話不足が、いかに多くの人を巻き込み、犠牲をもたらしたのかに気づき、紛争の現場で少しでも平和構築に役立ちたいと思った」
日本には戦後、中村哲さんのように、平和構築や復興のために、黙々と紛争地で働き、現地に受け入れてもらった「平和構築」の積み重ねがある。
今年は戦後75年の節目を迎えた。
敗戦を折り返しとすれば、明治維新から敗戦までの明治・大正・昭和前期までの77年間は戦争に次ぐ「戦争の時代」だった。あと2年で、日本国憲法のもとで派兵を戒め、武力介入の両手を縛った昭和後期・平成・令和の「平和の時代」は、それと匹敵する年輪を刻むことになる。
私たちは、そろそろ、戦後の価値観を基軸に据え、「グローバル・ファシリテーター」としての役割を、国家戦略の指針としていい時期にきている。
お二人の話をうかがって、そう思った。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。