外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(20) 日本は「グローバル対話」の促進者に

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米国とアフガンを結ぶ線

   もちろん、その時点で川端さんが、アフガンと同時多発テロの結びつきを直観したわけではない。米政府が同時多発テロの首謀者として過激派テロ組織アルカイダを絞り込んだのは数日後のことだ。

   米国人のほとんどが、地球の反対側にある陸封国アフガンを制圧するタリバンのことを知らず、そのタリバンが匿うオサマ・ビンラディンの名前を聞いたこともなかった。だが、川端さんの脳裏には、時間を遡って、同時多発テロに向かうアルカイダの軌跡が、鮮明に浮かび上がった。当時。朝日新聞の東京本社にいた私も、ビンラディンとタリバンの名前を聞いて、その軌跡がおぼろにつかめた。それは、その数年前、アフガンから帰国する途中に日本に立ち寄った川端さんと会って、アフガンの著しい変化について詳しい話をうかがったことがあったからだ。

   米ミシガン州のホープ大、コロンビア大大学院修士を経て川端さんが国連に入ったのは1988年のことだ。政治安保理局に入るまで、自分の職場が旧ソ連の「縄張り」であることは知らなかった。国連は、世界政府のように国家の上に立つ「超国家組織」ではなく、加盟国の利害を調整する「国家間組織」に過ぎない。当然、大国は自国出身者を国連職員に送り込み、その情報力や影響力を強めようとする。もちろん、国際機関の職員は中立性を求められるが、陰に陽に、自国との結びつきがにじむのは、避けられない。

   いつしか、国連総会はアメリカ、PKOを担当する特別政治局は英国というふうに、国連事務局の中にも「縄張り」ができていた。川端さんが属した政治安保理局は旧ソ連の影響下にあり、冷戦が終わるまで、旧ソ連や東独、ポーランド、ハンガリーなどの出身者が要職を占めていた。

   国連安全保障理事会の担当になっても、川端さんには書類整理の仕事が割り当てられ、安保理に立ち会うことすらほとんどなかった。

   様変わりしたのは、ベルリンの壁が崩れ、1991年12月に旧ソ連が崩壊してからだ。

   その翌日、たまたま乗り合わせたエレベーターで、ソ連出身の政治局長は、川端さんの手を両手で握り、頬を紅潮させて「カワバタ、これから一緒にがんばっていこう」と語りかけた。それまで、声もかけてもらえないような上司だった。

   冷戦後は、川端さんも、当たり前のように安保理に出席し、非公式協議にも参加して記録を取るようになった。川端さんは1994年から2年間、同年に設立された「安保理改革に関する特別作業部会」を担当した後、1995年の初夏に安保理を離れて、アフガニスタンでの和平交渉の担当官に起用された。しかし当時は、アメリカの無関心や周辺国の介入のせいで、和平交渉は難航を極め、川端さんが当初仕えた二人の事務総長特使は相次いで任期半ばでやめていった。

   たが、1995年と96年にサウジアラビアで米軍施設爆破事件が連続すると、アフガニスタンを取り巻く状況が一変した。犯行はタリバンに庇護されていたアルカイダの仕業とみられ、アメリカのクリントン政権の注意を引いたのである。アフガン紛争への注目度の高まりを受けて、当時のコフィ・アナン事務総長は1997年7月に、アルジェリアの元外務大臣ラフダール・ブラヒミ氏をアフガン和平担当の事務総長特別代表に任命した。ブラヒミ氏は、レバノン紛争の終息に向けたタイフ和平合意や、アパルトヘイトの廃止をうけた南アフリカでの総選挙の監視などで実績を積んでおり、国連による紛争解決の「切り札」と目されていた。ロシアなど紛争の関係国政府も、「ようやく重量級の交渉者が登場した」と評し、大物交渉者の任命を歓迎した。川端さんはブラヒミ氏の補佐官として、アフガン和平工作のため、現地や、ワシントン、モスクワ、ローマ、リヤド、テヘラン、ニューデリー、東京などを訪れる特使に同行するようになる。アフガン担当官として訪れた国は、のべ63ヵ国にのぼった。

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