東京都練馬区の遊園地・としまえんが2020年8月31日をもって閉園する。1926年の開業以来94年間続いた、国内でも長寿の遊園地だった。遊園地の名前としての「としまえん」は消えるが、周辺を指す呼び方としての「豊島園」は駅名などに残って閉園後もそのまま使われそうだ。
としまえんと同時代に開業した遊園地は、その多くが姿を消している。としまえん開業前後の歴史を振り返ると、同園のような「郊外の遊園地」が現代の都市生活に与えた影響が見えてくる。
戦前の遊園地ブームの中で開園
としまえんの開業は1926年。翌1927年には西武鉄道の前身・武蔵野鉄道の豊島園駅が開業した。当時は遊園地も「豊島園」と漢字が正式な園名だった。この時代、関東・関西を中心に都市郊外の遊園地がブームとなっており、鉄道会社も集客のため積極的に遊園地を開業させる。豊島園の開業当時、武蔵野鉄道と豊島園に資本関係はなかったが、1941年に買収、その後武蔵野鉄道が西武鉄道となり、西武グループの傘下として現在に至る。
としまえんと同じく戦前に関東私鉄沿線に開業した遊園地は、小田急沿線の向ヶ丘遊園(1927年開業)、東急沿線の多摩川園(1925年開業)と二子玉川園(1922年開業)、京王沿線の京王閣(1927年開業)、京成沿線の谷津遊園(1925年開業)が挙げられる。いずれも鉄道会社の系列で開業した。うち向ヶ丘遊園・多摩川園・二子玉川園・谷津遊園は最寄り駅も遊園地と同じ駅名が採用された。ちなみにとしまえんと同じ西武沿線にある西武園ゆうえんち(埼玉県所沢市)は1950年の開業である。
戦後にレジャーが多様化すると、これらの遊戯施設は閉園が相次ぐ。閉園は京王閣が1947年、多摩川園が1979年、二子玉川園が1985年、谷津遊園が1982年である。21世紀には向ヶ丘遊園が2002年に閉園した。
閉園後の遊園地はどうなるか。京王閣は「京王閣競輪場」に名残をとどめ、谷津遊園は習志野市営の「谷津バラ園」として残っている。向ヶ丘遊園跡地の一部は藤子・F・不二雄ミュージアムになっている。
一方、東急系の多摩川園はテニスクラブを経て田園調布せせらぎ公園に、二子玉川園の跡地は大規模再開発をされて二子玉川ライズとなった。遊園地の名をとった駅は閉園後まもなく改称(谷津遊園→谷津)、10年以上を経て改称(多摩川園・二子玉川園を2000年に多摩川・二子玉川に改称)、改称せず(向ケ丘遊園)のパターンがある。
としまえんの他に、関東大手私鉄沿線のレジャー施設は前出の西武園ゆうえんちの他、東武動物公園(埼玉県宮代町)、よみうりランド(東京都稲城市)など。としまえんはその中では最古であったが、閉園後はテーマ―パーク「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京‐メイキング・オブ ハリー・ポッター」が同地に2023年に開園予定である。
関西の「〇〇園」は良好な住宅地に
関西でも「〇〇園」と名が付く地名・駅名は多い。最も有名なのは「甲子園」(阪神)であるが、他にも「甲陽園」「甲東園」(阪急)、「香櫨園」(阪神)、「香里園」(京阪)など。これらも戦前に行楽地として栄えた名残である。
兵庫県西宮市の甲子園駅周辺は1924年開業の阪神甲子園球場を軸に開発され、1929年には遊園地の阪神パークが開業した。阪神電鉄は香櫨園駅近くの香櫨園遊園地の経営にも参画、一帯を開発した。同じく西宮市の甲陽園にもかつて遊園地・温泉が作られてリゾート地としてにぎわい、鉄道を敷設した阪急電鉄も学校や住宅を整備する。
こうして一帯が郊外の行楽地としてイメージが向上すると、西宮七園(甲子園・甲陽園・甲東園・苦楽園・甲風園・香櫨園・昭和園)として高級住宅地のイメージが定着した。中には「甲風園」のように、先行する「〇〇園」にちなんで命名されたエリアもある。
また京阪の香里(現・香里園)駅近くに1910年に開業した香里遊園地はその後移転し、現在の「ひらパー」ことひらかたパークになるが、当時の名残が駅名に残っているというわけだ。都心から離れた郊外の遊園地、という立ち位置はとしまえんと近い。
豊島園・甲陽園など「〇〇園」に我々が何となくいいイメージを抱くのは、戦前のこのような土地開発の歴史が影響しているだろう。遊園地はただ遊びに行くだけの場所ではなく、街のイメージ作りにも貢献してきた。