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「経済学の貧困」に陥った理由とは

   高橋さんは2015年4月に、日本記者クラブで「経済学の貧困」と題して講演をしたことがある。高橋さんはその中で、ケインズの高弟である英国の女性経済学者ジョーン・ロビンソンが1970年の講演で語った問題提起を話題の中心に据えた。

   60年代後半まで、ケインズ政策の導入は成功を収め、西側先進諸国のGDPは恒常的に拡大を続けた。新古典派は完全競争の成立に必要な4つの前提条件が整えば、政府が関与しなくても個人の利益と社会の利益が最大化すると唱えたのに対し、ケインズは、雇用量は経済全体の有効需要によって決まると考え、経済政策による政府の関与の必要性を唱えた。その考えは英国から米国へと広がり、戦後の西側諸国において経済政策の基盤になっていた。

   だがロビンソンは、70年の講演で、ケインズが正面から向き合わなかった「貧困」や「格差」の問題にも経済学は応えるべきではないかと訴えた。

   新古典派は、次のような条件を前提にしていた。

「生産手段の私有制」

「各経済主体は経済合理人として自らの経済的利益を最大化するように行動する」

「生産要素の使途は私的・社会的費用をかけずに自由に変えられる」

「経済的な利害は市場機構の調整によって解決される」

   ロビンソンは、こうした条件を前提としなければ成立しない経済理論は、再考すべきだと指摘した。

   だが、そうした問題提起は忘れ去られ、経済学は、「政治家が考える目的に沿って、予算などの稀少資源をいかに配分すれば効率的に目的を達成できるか」という分野に自らの研究対象を狭めていくことになった。実際の自然環境や生活環境といった社会的な条件を考慮して現実の「格差」や「貧困」に立ち向かうのではなく、名目的な所得格差を示すジニ係数や、相対的貧困率の指標といった統計上の数値をどうすれば効率的に改善できるかを政治家に提言する、という学問のスタイルに変節していった。

   1970年前後は、日本だけでなく、世界的にも成長が行き詰まり、「成長一辺倒」の世界観から「低成長のもとでの生活重視」「福祉政策のもとでの社会共通資本の充実」「環境に配慮した成長」といった価値観への転換が求められる時期だった。

   だが、ニクソン・ショック、石油ショックのあとでは声高な「成長重視」の流れに押し流され、その後は経済的な「新自由主義」、「市場万能主義」の名のもとに、社会が成長を最重視する価値観に戻ってしまった。

   高橋さんは、そうした「経済学の貧困」に対し、コロナ禍は再考を迫っていると考える。

「私たちの社会は、もっと早く、もっと効率的にという合言葉をもとに、利益を最大化する方向へ突っ走ってきた。しかし社会には、歩きたくても歩けない人、話したくても話せない人、見たくても見られない人がいる。『プロクルステスの寝台』ではないが、私たちは生きている人間に合わせて経済理論を立てるのではなく、生きている人々を、『経済合理人』というモデルに押し込めようとしてきたのではなかったのか」

   経済学は客観的に実証できる範囲に対象を限定し、抽象モデルによって操作できる統計やデータを扱う傾向を強めてきた。定量化できない「貧困」や「格差」、文化人類学が考察してきた「無償の贈与」や「相互扶助」など古くからある慣行は、先進国の経済合理人をモデルとする経済学からは、「学問外」として排除される傾向にあった。

「ジョーン・ロビンソンはかつて、技術開発は、普通の人がどれだけ我慢できるかにかかっている、と言ったことがある。パソコン起動までに3分かかることも我慢できない人が増えれば、企業はその数分の短縮のために膨大な金を使ってまで技術を開発する。しかし、そうやって便利になることが、ほんとうの幸せなのか。利益を最大化することだけを指標に競い合うのではなく、さまざまな個性、能力の人々が集まる社会で、『満足度』を最大化することが、経済学の目的なのではないか」

   コロナ禍のもとで、高橋さんはそう考える機会が増えたという。

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