背番号には特別な思いが詰まっているものがある。鹿島アントラーズの「背番号2」はその1つ。鹿島のDF内田篤人(32)がつけていたこの番号は、同じ右サイドバックの元日本代表DF名良橋晃氏(48)から受け継がれたものだった。
内田は現役ラストマッチとなった2020年8月23日の第12節・ガンバ大阪戦、同点ゴールを呼び込むロングボールを蹴り込んだ。「あのボールにはいろんな『メッセージ』が込められていたと思います」。名良橋氏に、「鹿島の2番」を託した内田への思いを聞いた。
「2番は篤人につけてもらいたい」
ベンチスタートの内田の出番は早々にやってきた。0-1の前半16分、DF広瀬陸斗の負傷で交代出場。痛めている膝をテーピングで固め、キャプテンマークを巻いた。
後半アディショナルタイム、内田が相手陣内の浅い位置から斜め前に長いボール。こぼれ球を拾った鹿島は、MF荒木遼太郎(18)のクロスからDF犬飼智也(27)がヘディングで押し込んだ。試合終了間際の同点弾だった。緊急出場となった内田のラストマッチについて、名良橋晃氏はJ-CASTニュースの取材にこう振り返る。
「皆さん思ったかもしれませんが、『まだ現役でできるんじゃないか』というパフォーマンスでした。上手さがあり、(前半39分の)イエローカードをもらったシーンのような泥臭さがありました。最後のロングボールは『絶対入れてくれ』ということはもちろん、いろんな『メッセージ』が込められていたと思います。それを若い選手たちがゴールに結びつけたのは、篤人の『メッセージ』が伝わり、彼らがそれを受け取ったということだと思います。感極まりました」(名良橋氏)
名良橋氏は06年に鹿島を退団する時、当時の鈴木満強化部長に「2番は篤人につけてもらいたい」と率直に伝えた。内田が翌07年から実際に「2」を背負っていたのを見て、名良橋氏は「良かった」と胸をなでおろしたという。そこには並々ならぬ思いがあった。
「僕の前に鹿島で2番をつけていたのは、僕がずっと憧れていたジョルジーニョでした。ジョルジーニョの退団に伴い、クラブから『お前がつけろ』と言われた時、2番に相応しい選手にならないといけないと強く思いました。非常に重い番号でした」
ジョルジーニョ氏(56)はブラジル代表の右サイドバックとして90年イタリアW杯、94年米国W杯に出場し、米国大会は優勝を果たした名選手。名良橋氏は常々憧れを抱いていることを語っており、鹿島でチームメイトになってからも背中を追いかけた。
その名良橋氏は98年フランス大会で日本初のW杯出場を成し遂げるなど、まさに日本を代表するサイドバックとなった。そして鹿島での最終年、清水東高から高卒で入団したのが内田だった。