「国産原爆」開発に挑んだ研究者たち 太陽の子・モチーフの「F研究」秘史

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   2020年8月15日、NHK特集ドラマ「太陽の子」が放送される。これには柳楽優弥さん、有村架純さん、また7月18日に亡くなった三浦春馬さんが出演する。

   「太陽の子」は第二次世界大戦中の日本の原子爆弾開発計画をベースにしたドラマで、柳楽さんが新型爆弾の研究に従事する若き研究員・石村修を演じ、三浦さんは弟の石村浩之を演じる。

   戦時中「新型爆弾」と呼ばれた原爆の日本での開発史、特に海軍主導の研究は戦後社会でほとんど伝えられてこなかった。どのような研究だったのか、ドラマ放映前に歴史を簡潔にさかのぼってみた。

  • 原爆開発に従事した研究者の多くは、被爆後の広島の調査にも動員された
    原爆開発に従事した研究者の多くは、被爆後の広島の調査にも動員された
  • 原爆開発に従事した研究者の多くは、被爆後の広島の調査にも動員された

陸軍「二号研究」と海軍「F研究」

   戦時中の日本の原爆開発は、陸軍主導と海軍主導の2つの研究が行われた。陸軍が着手したのは「二号研究」と呼ばれ理化学研究所の仁科芳男博士を中心に進められた。

   一方海軍が着手した計画が「太陽の子」のヒントとなった「F研究」である。海軍は京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に接触し、荒勝研究室を中心にウランを使用する「新型爆弾」の研究が始まった。荒勝教授は「太陽の子」にも同名で登場し、國村隼さんが演じる。

   戦後のGHQの調査に海軍が回答した記録によれば、海軍が本格的に荒勝教授にこの研究を委託し始めたのが1943年5月である。また戦後、陸軍技術将校の山本洋一が発見した文書に計画の概要が記されている。原爆研究は「戦時研究三七―二」の名称で進められ、戦後「F研究」の通称が定着した。

「目標 目的物質ノ軍用化ニ付必要ナル資料ヲ探究スルニアリ
研究方針 鉱石ヨリ目的物ヲ分離、同位元素ノ分離、基本数値ノ測定等ニ関スル研究並ニ応用ニ関スル検討ヲ行ナヒ活用上ノ資料ヲ得ントス」(計画概要より)

   これを素直に解釈すると、「目的物質」とはウラン235、研究方針はウラン鉱石からウラン235を得る研究と、核分裂反応の基礎的な研究を目標にしていた。主な研究者として取りまとめを担う荒勝教授と共に、原子核理論の担当者として京都帝大理学部教授の湯川秀樹の名もある。すでに後年日本人初のノーベル物理学賞の受賞理由となる中間子理論を発表し、日本の核物理学をリードしていた。

   ウラン鉱石を濃縮して原爆の材料となるウラン235の抽出を目指す研究はF研究・二号研究とも取り組んでいたが、F研究では遠心分離機を用いる遠心分離法を選択、ウラン核分裂の研究が進んでいたとのことである。遠心分離法自体は現代のウラン濃縮で一般的に用いられている。結果論ではあるが、二号研究で失敗した熱拡散法と比較すると成功に近い着想だったといえるだろう。

研究者の本音は「不可能」

   ただし、当事者の回想等を見ると、原爆の完成まではほど遠く、この戦争中の実用化は不可能という認識は漠然と持っていたようである。

「実際にどれだけの規模かが分かってくるにつて、海軍の将校たちもこれは現状では無理だなと気づいていったのです。原子爆弾というのは無理だと、私たちもむろん気づいていました。ただ正直な気持ちをいえば、仁科研がどれほど研究のレベルを引き上げているのか、そのことは気になりましたよ。仁科さんのところには負けるなという意気込みです。これは研究員の誰もが持っていて、それがある意味では私たちがF号研究に取り組むこだわりでもあったのです」(保阪正康「日本の原爆 その開発と挫折の道程」より、当時の京都帝大助教授木村毅一の回想)

   海軍側が研究を催促しても、科学者の方は「戦時下という現実に対して、科学者としては科学上の発想を堅持するとの考えに徹しているともいえた」「(海軍と研究者の間に)陸軍とは異なったアカデミックな関係が築かれていた」と、当事者達への取材に携わった保阪正康氏は自著「日本の原爆 その開発と挫折の道程」(新潮社)で推測する。

   理論レベルではアメリカに劣らぬとも、遠心分離器も完成に至っておらず、ウラン鉱石も海軍の便宜を通じて少量が入手できた程度であった。兵器として完成させられる目途など全く立っておらず、荒勝・湯川をはじめ研究者にとっては、戦時下で自分の研究を継続する建前としてF研究を受け入れていた側面があったといえる。

   1945年7月21日に滋賀・琵琶湖ホテルにてF研究の主な研究者と海軍の間で持たれた会合で、大学側は「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといってかまわないと思う」との結論を出した。戦局も悪化の一途で、事実上の開発断念であった。陸軍の二号研究も45年5月に仁科博士が研究の継続不可能を表明、挫折していた。

   その5日前、7月16日にアメリカでは史上初の核実験に成功していた。またアメリカのマンハッタン計画ではウラン235の濃縮に成功したのみならず、自然界にほとんど存在しないプルトニウムを生産してウラン型(広島に投下された「リトルボーイ」)とプルトニウム型(長崎に投下された「ファットマン」)を開発したのであるから、ウラン濃縮法すら確立できなかった日本との格差は歴然としていた。

被曝調査と、枕崎台風で犠牲になった研究者

   1945年8月6日に広島に「リトルボーイ」が投下されると、この被害調査にF研究の研究者も従事した。荒勝教授ら京都帝大のチームは8月10日に広島入りし、被爆後の土壌からサンプルを採取、放射線を測定してウラン235を使用した原爆が使われたと報告書「広島被爆地土壌等調査結果及ビ判定ノ概要」で推定している。

   京都帝大からの調査団はこれを含めて3回に渡り派遣され、9月に第3次調査団が広島入りし調査にあたっていたが、9月17日に上陸した枕崎台風による山津波が宿舎を直撃、11人の教員・大学院生らが犠牲になった。死者11人の名を刻んだ「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑」が広島県廿日市市に建てられている。犠牲になった理学研究科大学院生の1人、花谷暉一の遺族が寄贈した建物が京大構内にあり、2016年まで京大生協が入居していた。

   花谷暉一も戦時中は荒勝研究室に所属しており、彼が測定したウラン核分裂に関するデータは軍とも共有されていた。「太陽の子」で柳楽さんが演じる石村修のような若い学生が、戦後も原爆調査に携わりながら災害で命を絶たれた歴史があった。戦災のみならず、戦後混乱期の災害も当時の社会に爪痕を残していたのである。

(J-CASTニュース編集部 大宮高史)

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