研究者の本音は「不可能」
ただし、当事者の回想等を見ると、原爆の完成まではほど遠く、この戦争中の実用化は不可能という認識は漠然と持っていたようである。
「実際にどれだけの規模かが分かってくるにつて、海軍の将校たちもこれは現状では無理だなと気づいていったのです。原子爆弾というのは無理だと、私たちもむろん気づいていました。ただ正直な気持ちをいえば、仁科研がどれほど研究のレベルを引き上げているのか、そのことは気になりましたよ。仁科さんのところには負けるなという意気込みです。これは研究員の誰もが持っていて、それがある意味では私たちがF号研究に取り組むこだわりでもあったのです」(保阪正康「日本の原爆 その開発と挫折の道程」より、当時の京都帝大助教授木村毅一の回想)
海軍側が研究を催促しても、科学者の方は「戦時下という現実に対して、科学者としては科学上の発想を堅持するとの考えに徹しているともいえた」「(海軍と研究者の間に)陸軍とは異なったアカデミックな関係が築かれていた」と、当事者達への取材に携わった保阪正康氏は自著「日本の原爆 その開発と挫折の道程」(新潮社)で推測する。
理論レベルではアメリカに劣らぬとも、遠心分離器も完成に至っておらず、ウラン鉱石も海軍の便宜を通じて少量が入手できた程度であった。兵器として完成させられる目途など全く立っておらず、荒勝・湯川をはじめ研究者にとっては、戦時下で自分の研究を継続する建前としてF研究を受け入れていた側面があったといえる。
1945年7月21日に滋賀・琵琶湖ホテルにてF研究の主な研究者と海軍の間で持たれた会合で、大学側は「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといってかまわないと思う」との結論を出した。戦局も悪化の一途で、事実上の開発断念であった。陸軍の二号研究も45年5月に仁科博士が研究の継続不可能を表明、挫折していた。
その5日前、7月16日にアメリカでは史上初の核実験に成功していた。またアメリカのマンハッタン計画ではウラン235の濃縮に成功したのみならず、自然界にほとんど存在しないプルトニウムを生産してウラン型(広島に投下された「リトルボーイ」)とプルトニウム型(長崎に投下された「ファットマン」)を開発したのであるから、ウラン濃縮法すら確立できなかった日本との格差は歴然としていた。