外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(17)哲学者・高橋哲哉さんと考える 歴史認識と「犠牲のシステム」

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日本型「犠牲のシステム」

   2011年の東日本大震災で福島第一原発の事故が起きて以降、高橋さんは「犠牲のシステム」という考えを深めてきた。「犠牲のシステム」とは何か。高橋さんの定式では、次のようになる。

「犠牲のシステムでは、ある者たちの利益が、他の者たちの生活を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているが、共同体にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

   ここでいう犠牲にされる側の「生活」とは生命や健康、日常、財産、尊厳や希望などを含む。また、犠牲を強いる「共同体」は、国家、国民、社会、企業など様々だ。

   高橋さんがこの考え方を深めるきっかけは、2009年の政権交代だった。鳩山由紀夫首相は、沖縄県の普天間飛行場を返還する代わりに、辺野古に移設するという日米合意について、代替基地は「最低でも県外へ」と異論を唱え、すぐに行き詰まって方針を撤回した。

   そして2011年の東日本大震災では、首都圏に電気を供給する東京電力福島第一原発で過酷事故が起き、その対応にあたった菅直人首相は、批判を浴びて政権を野田佳彦首相に引き渡すことになった。

   こうして政権交代下で、この国の根幹をなす安全保障問題と、エネルギー問題がともに正面から問われることになったが、これは単なる偶然だったのだろうか。もちろん、原発事故の引き金になった東日本大震災は天災であり、政権交代とは関係ない。しかし、特定の地域に基地や原発を押し込め、その犠牲の上に保たれる安全保障やエネルギーの問題を、自民党の長期政権下では忘れていたことに、私たちは気づかされることになった。逆説的にいえば、政権が交代しても、システムが微動だにせず、そのシステムが「国のかたち」であることを知った。つまり、戦後ずっと目に見えなかった「犠牲のシステム」が、可視化されたのである。

   高橋さんの場合、事情は複雑だった。福島県に生まれ、小学3年まで4年間を、のちに福島第二原発が立地することになる富岡町で暮らしたことがある。その後、首都圏に住まい、事故当時も、福島から供給される電気に頼って暮らしていた。故郷が放射線に汚染され、多くの人々が避難を余儀なくされ、あまつさえ差別まで受けるという事態に、「なぜ」という疑問符とともに向き合わざるをえなかった。

   そこでつながったのが、歴史認識や歴史責任の問題で思想的課題となっていた沖縄だった。琉球王国として存在していた沖縄は、明治の「琉球処分」によって解体され、正式に日本の版図に汲み込まれた。戦前は「皇国史観」を教え込まれ、沖縄方言も禁じる同化政策が推し進められた。

   沖縄戦では「国体護持」のために沖縄守備軍が住民を巻き込む持久戦を行い、結果として県民の4人に1人が犠牲になった。沖縄県民の多くはそこに、本土のための「捨て石」にされたという悔悟と痛恨を抱くことになった。

   戦後はサンフランシスコ講和条約で日本が占領から解き放たれた代わりに、本土から切り離され、事実上、米軍の支配下に置かれた。しかもその27年間の米軍政下で、米軍は沖縄の基地を「銃剣とブルドーザー」で拡充し、本土で紛争を起こしていた米海兵隊などの基地を撤収・縮小し、沖縄に米軍基地が集約されていく。本土が経済成長で復興に向かう歳月は、沖縄にとっては対照的に、より多くの基地を受け入れ、米兵による犯罪や事故、騒音に苦しむ日々だった。

   こうして、自分の「裏庭」には迷惑施設がきてほしくないという本土の意識が、狭い沖縄に基地を押し込め、その「犠牲」を忘れるというシステムが形づくられた。

   それは、首都圏では福島や新潟に、関西では福井などに原発を建設し、自らの生活圏からリスクを排除してその恩恵を受け、しかもそのシステムそのものを意識から追い払うという原発の「犠牲のシステム」に酷似している。

   こうして、高橋さんは「犠牲のシステム福島・沖縄」(集英社新書)を書き、自らを含め、自分の利益のために、特定地域に不条理な構図を押し付ける人々の責任を世に問うた。沖縄取材が長く、東日本大震災で原発取材事故の被害を取材していた私は、その著作の鋭い問題提起に、虚を突かれる気がした。

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