渡哲也さん、病と闘った壮絶な俳優人生 被災者や小児がんの子供を励ます

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   2020年8月10日に78歳で亡くなった俳優の渡哲也さんは頑健そうな外見とは裏腹に、30代からしばしば大病に苛まれ、病と闘いながらの壮絶な俳優人生だった。

   その一方で、震災の被災者や小児がんの子供たちを支えるなどのボランティア活動に積極的に参加し、励ましのエールを送り続けた。

  • 渡哲也さんの芸能生活40周年記念CD(WebKoo)
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一時は「俳優人生が終わった」と覚悟

   身長180センチ、空手二段、「第二の石原裕次郎」のキャッチフレーズ。日活待望の大型新人として売り出された。デビュー当時のお披露目会見では、記者やカメラマンの前で瓦5枚を叩き割り、硬派のタフガイぶりを見せつけた。

   だが、しばしば病魔にとりつかれた。1974年、大河ドラマ「勝海舟」の主役になったが、肋膜炎で降板。肝機能不全なども併発して9か月の長期入院。75年、映画「仁義なき墓場」の撮影中にも体調を壊し、東大病院に5か月も入院した。医師がプロジェクトチームを組んだが、何の病気かわからず、薬の副作用に苦しんだ。『渡哲也 俺』(柏木純一著、毎日新聞社)によると、のちに膠原病と診断されたという。

   89年、「ゴリラ・警視庁捜査第8班」では、ヘリコプターから着地するシーンで左足の筋を損傷。無理して撮影を続行したこともあって悪化し、その後は足を引きずって歩くなど後遺症が残った。

   91年には直腸がんが見つかった。すでに「部分切除」の域を超えていた。直腸を25センチにわたって切り取り、人工肛門になった。一時は、「これで自分の俳優人生は終わった」と覚悟したという。その後も別の小さながんの手術をしている。さらに2015年6月に急性心筋梗塞で入院し、手術を受けていた。

真っ直ぐな生き方を貫く

   近年は、家族や夫婦愛などをテーマにしたヒューマンな作品が多かった。12年にTBSが制作した日中国交正常化40周年記念のドキュメンタリードラマ「強行帰国~忘れ去られた花嫁たち~」では、中国孤児の定住に尽力した日本人浪曲師、国友忠役を演じた。朝日新聞の取材にこう語っている。

「中国戦線で日本兵だった国友さんが、戦後、私財をなげうって残留婦人の帰国を裏方で支える。他人のために生きるその姿に、共感した」 「人間の生き様、男としての生き様を感じさせる役ならば、役の大小にかかわらず、善人悪人にかかわらず、今までやらせていただきました」

   自身も真っ直ぐな生き方を貫いた。日活から、経営危機がうわさされていた石原プロにあえて移り、敬愛した石原裕次郎さんの闘病時は、最側近として終始付き添った。「もしものときは、自分も殉じたい」と漏らしたほど。

   阪神大震災や東日本大震災では、石原プロの俳優たちを引き連れ、被災地での炊き出しにかけつけた。毎日新聞社が1996年から始めた小児がん征圧キャンペーン「生きる」には率先して協力し、小児がんの子どもたちを励ますイベントに出演し続けた。がん生還者ということだけではなかった。4人兄弟のうち、長男の兄と4男の弟と幼少のころに死別するというつらい経験もしていた。

「自分のことは何を書かれても構わない」

   両親ともに旧家の出身。父は頑固一徹の明治男で厳しく、母は竹久夢二の画から抜け出てきたような評判の美人だった。渡さんはその両方の資質を受け継いでいた。

   寡黙で、毎日新聞の柏木純一記者が97年に刊行した『渡哲也 俺』が唯一の自伝とされる。2年半がかりの丹念な取材。渡さんからの注文は一つだけだった。

「自分のことは何を書かれても構わないが、他人を傷つけたり迷惑をかけたりすることだけは避けて欲しい」

   同書で、俳優の高倉健さん(故人)は、渡さんのことを、こう語っていた。

「家族や石原プロなどを全部背負い、様々なシガラミに縛られながら、辛いこと、やりたくないこと少なくないにちがいないと推察しますが、嫌な顔ひとつ見せず、おくびにも出さず平然とやってらっしゃる。どこかで自分を捨てていらっしゃる・・・」

   趣味は「たき火」。自宅の庭にブロックで小さな囲いをつくり、そこで枯葉や小枝を燃やし、ちらちら揺れる小さな炎と煙に手をかざす。柏木記者の問いかけに、「人生なんて、言ってみれば、流れる雲のようなものですから」と答えている。

   渡さんが到達した心境を、柏木記者は「則天去私」(自我を超え、身を天地自然にゆだねて生きる)と評していた。

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