「日航ジャンボ機事故」直後の「人事」暗闘 消えた「社長候補」...中曽根文書から読み解く

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   単独機の事故としては世界で最も多い520人が犠牲になった日航ジャンボ機事故から2020年8月12日で35年。当時の中曽根政権は、どう事故に向き合おうとしたのか。

   19年に死去した中曽根康弘元首相が生前に国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の資料の中には、新聞記者が政府・与党幹部を取材したメモも大量に含まれている。当時の日本航空(JAL)が半官半民だったこともあって、ジャンボ機事故に触れたものも少なくない。ただ、そこには事故原因に関する内容はほとんどなく、大半が事故後のJAL社長の後任人事をめぐるものだ。

   事故から2日後に高木養根(やすもと)社長(以下、肩書きはいずれも当時)が辞意を表明し、後任は運輸省出身の町田直(なおし)副社長の昇格が既定路線だと考えられていた。だが、結局は順送り人事は阻止され、町田氏も事実上更迭された。社長人事は10月末に公表されたが、直前まで難航。メモには、順送り人事をめぐる政府・与党内の思惑や、政権にとって意中の人物から社長就任を固辞され、焦る様子が残されていた。

  • 1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機事故は、単独機の事故としては世界で最も多い520人が犠牲になった。2日後の8月14日には、日本航空(JAL)の高木養根(やすもと)社長が辞意を表明した(写真:Fujifotos/アフロ)
    1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機事故は、単独機の事故としては世界で最も多い520人が犠牲になった。2日後の8月14日には、日本航空(JAL)の高木養根(やすもと)社長が辞意を表明した(写真:Fujifotos/アフロ)
  • 中曾根康弘元首相が国立国会図書館に寄託した資料の中には「情報簿」と題したファイルもある。その中には、政治家の発言を記した大量の取材メモがとじ込まれている
    中曾根康弘元首相が国立国会図書館に寄託した資料の中には「情報簿」と題したファイルもある。その中には、政治家の発言を記した大量の取材メモがとじ込まれている
  • 1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機事故は、単独機の事故としては世界で最も多い520人が犠牲になった。2日後の8月14日には、日本航空(JAL)の高木養根(やすもと)社長が辞意を表明した(写真:Fujifotos/アフロ)
  • 中曾根康弘元首相が国立国会図書館に寄託した資料の中には「情報簿」と題したファイルもある。その中には、政治家の発言を記した大量の取材メモがとじ込まれている

政府関係者も現場の状況つかめず

   中曽根氏が国会図書館に寄託した文書の内容は、講演のための原稿や、政治家や文化人と交わした書簡、メモ書きが入った記者会見の資料など。その中には「情報簿」と題したファイルが34冊あり、83年から10月28日から87年11月5日にかけて、政治家の発言とみられる内容が収録されている。その多くが「日時、取材対象者、取材形式、記録者」のフォーマットに沿ったメモで、大半が手書きメモのコピーだ。

   事故は85年8月12日夕に起きた。羽田発大阪(伊丹)行きのJAL123便(ボーイング747型機)が途中で操縦不能になり、御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に墜落した。事故機が78年に「しりもち事故」を起こした際、機内の圧力を保つための「圧力隔壁」と呼ばれる部分の修理にミスがあったことが原因だと考えられている。

   一連のメモで事故に最初に触れたのが「7/13朝 藤森」と書かれたメモ。日付は8月13日の誤記で、藤森昭一官房副長官の発言を記録したとみられる。8月13日早朝に墜落現場が確認された直後だ。政府としても現場の様子が把握できていないことが分かる。

「今日の対策本部、対策といっても生存者がいた時のことを考えての手当てが中心なので、原因はまだ全く入ってきていない。山下さん(編注:山下徳夫運輸相を指すとみられる)が現地に行くというが、何しろあんな山の中なので行ってもすぐにどうこうということはないでしょうし、今日の対策本部の中でも話が出るかもしれませんが、空からみるとか、そんなものならあるんではないでしょうか」

   この日深夜の藤波孝生官房長官の発言とみられる「p11:55 藤波」のメモでも、

「事故の件は、とにかく現場がわからないと...自衛隊なんかもずい分出かけているようですから。まああすA10:00の会議からではないですか」

といった具合だ。

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