外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(16)メディアの報道に今、必要なこととは

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佐藤卓己・京大教授と考える

   8月3日、歴史や社会学などの角度から、メディア論を広範に研究し、著作も数多い佐藤卓己・京大教授にZOOMで話をうかがった。

   佐藤さんは「輿論と世論 日本的民意の系譜学」(新潮選書)などの著書を通じ、「輿論」と「世論」の違いを明確にしてきた。戦前には、公的意見を「輿論」、大衆感情を「世論」と呼んで明確に区別していたが、戦後はさまざまな出来事を通してその違いが見失われ、「輿論の世論化」が進行して今に至る、との見方だ。その佐藤さんの目に、コロナ報道はどう映っているのだろう。

「一言でいえば、必ずしも読者や視聴者のニーズには応えきれていないと思う。テレビの情報番組では、パブリック・センチメントという『世論』には応えているが、『輿論』を形成しているとは言えない。では新聞が、『輿論』を形成しているかと言えば、物足りない。アフター・コロナの時代をどう生きるのか、という長期的な視点や、世界的な感染拡大を常に視野に据えるというグローバルな視点では、まだまだだと思う」

   日本のコロナ報道では、初期には中国や韓国などアジアでの取り組み、その後は、日本のモデルケースともなる欧州の事例などを取り上げたが、その後はこうした世界的な広がへの目配りが乏しくなり、もっぱら関心は国内に移った。都道府県別に感染者数や防止策を取り上げることは必要だが、いまは、その繰り返しになってはいまいか、と佐藤さんは問題を投げかける。

   だが、メディア史からいえば、今起きている問題は、より根源的な変化だろうと佐藤さんは指摘する。

   佐藤さんによると、米国のニュー・ハンプシャー大でコミュニケーション論を教えるヨシュア・メイロウィッツ教授はかつて、「No Sense Of Place」という著作を出版した(邦訳「場所感の喪失 電子メディアが社会的影響に及ぼす影響」、新曜社)。これはテレビを論じた研究だが、それまでの活字文化との違いを明確にした点に意味がある、と佐藤さんはいう。

「ここにいう『場所感』は『距離』と言い換えていい。かつて英国のコーヒー・ハウスは市民的公共性の原点と呼ばれた。それは、備え付けの新聞を回し読みし、そこで議論をするという習慣が作られたからです。ここでいう『距離』は。身分であり権威でもあった。新聞を購読したり、コーヒー・ハウスで議論したりする「市民」は財産と教養のある一部に限られていた。女性も子供も労働者もいない場所だった。一方、誰にも届く電子メディアは『距離』をなくし、身分や権威を排除した。つまり、情報の『民主化』は起きた、と言っていい」

   ヒトラーは、当時登場したラジオを使って国民に直接呼びかけ、かつてドイツを支配した伝統的エリート層を排除した。「つまりラジオがもつ『情報の民主化』というツールを使って、距離をなくし、中間集団の身分や権威を否定する。ヒトラーは大衆の中に入って女の子を抱きかかえ、それを映像に撮らせた。ナチズムは、大衆との距離をなくし、独裁者が大衆と直接結びつくドイツ型ファシズムだった」

   かつて佐藤さんは、ジョージ・L・モッセの著書「大衆の国民化 ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化」(柏書房)を共訳したことがある。ここにいう「大衆の国民化」は、ヒトラーの「我が闘争」に出てくる言葉だ。ラジオを使って狂信的なまでに愛国心を煽り、教養人や読書人を排除して、「国民」として一体化させる。ファシズムは伝統や権威に訴えて権力を握ったのではなく、「民主化」を叫んで政権を取った。その逆説を忘れてはならない、と佐藤さんはいう。

   新たなメディアを使って「情報の民主化」を図り、支持を集めるとい点では、ツイッターを駆使するトランプ米大統領にも、似たところがある。「メディアがファクトチェックで大統領のつぶやきに誤りがあると指摘しても、支持者は、大統領との距離感がないことを魅力的と考えるだろう」と佐藤さんは指摘する。

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