エッセンシャル・ワーク
コロナ禍が広がり、記者の仕事も、現場に行ったり対面取材をしたりという現場取材から、オンラインに移行しつつある。私の現役時代には、取材は対面が原則で、電話やメールを使った取材では、必ず「電話で」「メールで」と明記することになっていた。
だが、コロナ禍以降、そうした断り書きを見た記憶がない。そもそも、ジャーナリストという職業は、医療や介護、公共交通機関やゴミ収集、スーパーや薬局の運営を担う人々と同じように、現場に行かねば成り立たない仕事ではなかったのか。取材相手が感染を恐れて対面を拒む場合は別として、現場や相手の居場所に出向く「エッセンシャル・ワーク」ではなかったのか。そうした私の質問に、澤さんはこう答えた。
「読者には取材の手法や経過を、可能な範囲で、できるだけ正直に情報を開示する必要がある。ただ、一つの記事が40行しかない『幕の内』のパーツに、『ZOOM』という4文字を使えば、それだけ情報量を削らねばならない。エッセンシャル・ワークという点はその通りだが、記者も出社はしないが、できるだけ対面取材をしたり、現場に出向く努力はしていると思う」
澤さんの言葉に納得したが、私にはもう一つ別の懸念もある。2004年にイラクで起きた日本人人質事件で「自己責任論」が強調されて以降、政府の指示や勧告に従わないことを非難する風潮が高まり、トラブルを避けたいメディアも取材を萎縮する傾向が出てきた。2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故のあと、原発から半径20~30キロメートル圏に設定された「緊急時避難準備区域」にあたるとして、南相馬市の原町区から報道各社が記者を引き揚げた時にも、「政府指示に従う」というメディア側の暗黙の協調姿勢を感じた、報道機関としては、かりに政府の指示があっても、残された数万人の市民の声を伝える責任があったのではないだろうか。今回のコロナ禍で、政府が要請した「3密回避」や「外出自粛」に無条件で従うなら、「エッセンシャル・ワーク」の責任を果たせないのではないだろうか。これについて、澤さんはこう話した。
「本来のジャーナリズムは、何をやってはいけないか、ではなく、何ができるか、やってみせよう、という精神だろう。テレビで『許可を得て取材しています』と断り書きのテロップを流すのは、おかしい。取材は許可の有無ではなく、必要かどうかで判断すべきものだと思う。この情報は皆さんのお役に立てる、と言えるかどうかが、判断の分かれ目。よく取材先から、『マスコミにサービスする必要があるのか』と言われたことがあったが、『いえ、これはマスコミが儲けるためではなく、市民のためなんです』と答えた。リスクを取ってでも、パブリックのために重要な取材をして、現場で確認する。それがジャーナリズムの根幹なのだと思う」
反権力・反権威の感情が支配的だった時代は、「政府に逆らってでも」という取材活動は説明しなくても市民に支持されたかもしれない。しかし、「政府に従うのは当たり前」という感情が生まれがちな時代には、メディアの側があえて取材をする理由について、きちんと説明すべきだろう、と澤さんは言う。
「メディアでも『コンプライアンス重視』はやかましく言われるようになってから、『世間に叩かれない』という方針で、『苦情が来ないように』という傾向が強まったような気がする。きちんと理由を説明すれば、多くの人はわかってくれると思う」
最後に澤さんに、コロナ禍は取材やメディアの在り方を変えるかどうかを尋ねた。
「ZOOM会議やZOOM取材など、省けるものは省く、という傾向は続くだろう。ただ、新型コロナは喋るとうつる、長く、近くにいて喋るとうつす、という厄介な感染症だ。挨拶のキスもハグもだめ。つまり、新型コロナは、『コミュニケーション』を奪うウイルスだ。これは本質的に、ジャーナリズムにとってはピンチの事態だろう。中学や高校の物理で、『空気抵抗はないものとみなす』という前提で計算することを教わったが、現実の世界には空気抵抗がある。それと同じで、対面には空気感の共有や特発的な共鳴など、オンラインでは得られないものがある。絶対会ってくれなかった人が、訪ねてみたら会ってくれたなど、人と人の出会いでは一瞬の奇跡が起きる。便利なツールは使いこなしながらも、そうした取材の原点を忘れないようにしたい」