保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(52)
第3期国定教科書が促した「市民社会の自覚」

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   1918(大正7)年の第3期国定教科書は、いわば大正デモクラシーの反映といってよかったが、同時にこの時代には教育制度が大幅に変わった時代でもあった。日本帝国主義の人材養成は、ひたすら帝国大学の役目とされていたが、しかし帝国主義型の人材だけで社会が機能するわけではなかった。私立大学や高等専門学校の人材が社会的に求められるようになったのである。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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急増した大学生を企業が吸収

   第1次世界大戦のあと、日本社会は目に見える形で変化を遂げた。一般企業が事務部門の職員を定期的に採用することになった。事務部門も財務、経理、企画、営業、管理、それに企業の将来やそれぞれの業界の動きも正確に捉えて、その発展を進めるスタッフが求められることになった。そういう俸給生活者が日々丸の内の会社に通ってくるという生活パターンが出来上がった。いわば中間階層の誕生である。そういう階層の誕生は、日本社会のこれまでの形を変えていくきっかけにもなった。

   帝国大学だけが大学ではない、私立大学や高等専門学校もそれなりに社会的な地位を高めなければという動きは、時代の要請でもあった。この要請に応えたのが原敬内閣である。原は学制の改革に乗り出した。1918(大正7年)には大学令が公布された。明治期に創設されていた私立の専門学校や国立の専門学校などが相次いで大学に格上げされた。この時まで大学を名乗っていたのは、東京、京都、東北、九州、北海道の5帝国大学であった。この5大学で大学生は、およそ9000人であったのだが、大学令により大学を名乗る専門学校は一気に増えた。毎年のように大学として認可されていったのだが、昭和の初めには学生数は6万人を超える規模になっていき、それを企業が吸収する形になっていった。

   ちなみにこの時に大学になったうちの一部を以下に記しておこう。

【1920(大正9)年】東京商科大学、慶応大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、国学院大学、同志社大学、大阪医科大学、愛知医科大学
【1921(大正10)年】 東京慈恵医科大学、京都府立医科大学
【1922(大正11)年】新潟医科大学、岡山医科大学、立命館大学、龍谷大学、大谷大学、専修大学、立教大学、関西大学、熊本医科大学、拓殖大学
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