外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(15)日米地位協定の死角 在沖米軍に見る感染拡大の実態

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 日米地位協定に詳しい明田川融・法政大教授に聞く

   7月23日に、法政大教授の明田川融(あけたがわ・とおる)さんにZOOMでインタビューをした。

   明田川さんは法政大大学院で学んだ政治学博士で、「日米行政協定の政治史」(法政大学出版局)や「沖縄基地問題の歴史」(みすず書房)などの著書がある。今回問題になった日米行政協定の研究では、第一人者だ。

   1951年、サンフランシスコ講和条約の締結で連合国軍占領からの独立を果たした日本は、同時に米国と日米安全保障条約(旧安保)を結び、占領米軍を駐留米軍として受け入れた。安保条約は骨格のみを定めた極めて簡素な条約であり、その具体的な運用の詳細は、翌年に調印された「日米行政協定」に委ねられた。

   1960年、岸信介政権は旧安保を改定し、新安保条約を強行採決し、これが現行の日米安保条約になる。その際、「日米行政協定」も「日米地位協定」に改めた。

   正式名称は極めて、長たらしい。

   「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」

   日米安保条約は前文に続く全10条の簡素な作りだが、核心は第5条に定める米軍の日本防衛責任と、日本における米軍の基地使用を定めた第6条の二つにある。米軍は日本において基地を使用できる代わりに、日本の施政下における領域で、いずれかが攻撃された場合、自国の憲法の規定や手続きに従って、共同で対処するというものだ。これは「物(基地)と人(在日米軍)の協力」という「非対称」の条約(大阪大・坂元一哉教授の表現)だが、むろん、表向きは対等の関係にある。

   このうち、第6条に定めた在日米軍基地と米軍の地位については、そっくり「日米地位協定」に委ねられた。これが、長たらしい正式名称の由来だ。

   ところで、沖縄はサンフランシスコ講和条約によって独立する日本本土とは切り離され、引き続き米軍の施政下に置かれた。日本国憲法も、旧・新「日米安保条約」も適用されなかった。米軍は東アジア全般にプレゼンスを示すため、沖縄を拠点に「基地の自由使用」を続けた。集中的な核配備や、ベトナム戦争における爆撃機の直接発進が行われたのは、そのためだ。

   1972年5月15日に沖縄が返還され、本土に復帰した際、沖縄にどう日米安保条約を適用するかが、問題になった。そのために作成された日米地位協定の沖縄版が、英文で250ページを超える「5・15メモ」である。それまで沖縄の基地の「自由使用」を続けた米軍は、できるだけ特権を維持しようとして、日本側との交渉に臨んだ。

   もともと、日米行政協定・日米地位協定は、占領期の色合いを濃く残した米軍に有利な取り決めだった。だが、本土とは違って、米軍基地が過密化し、本土にはないさまざまな部隊を配置する沖縄で同じ規定を適用すれば、犯罪や人権侵害、社会問題が頻発するのは目に見えている。しかも、復帰前からの「特権」を維持しようとした米軍との間で結ばれた「5・15メモ」には、基地によっては使用の明確な条件を記さないなど、さまざまな抜け穴が残された。県道を封鎖したうえでの米軍の実弾砲撃演習が行われていたのも、その一例だ。

   以上が、明田川さんの著書「沖縄基地問題の歴史」を読んで、私なりに要約した沖縄の「日米地位協定」の問題点だ。あとは、明田川さんに話をうかがおう。

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