保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(51)
修身教育めぐる「警察官」と現場教師の攻防

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   1918(大正7)年からの第3期の国定教科書は、確かにそれ以前の国家主義的内容から個人を重視する方向に様変わりした。いわば市民という捉え方の芽が垣間見えるとも言えた。教師たちの間でも、折から吉野作造の唱える民本主義に対して共鳴する動きがあり、新教育の名の下に人間教育が行われるケースもあった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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修身教育は教師の間では人気がなかった

   教師たちの間では、修身教育そのものは人気はなかった。単に上から忠君愛国を説いているだけでは、授業そのものが訓示を垂れるようなものだとの反発もあったのだろう。加えて生徒、児童も押し付けだけでは信用しないという時代に入っていたのである。そこで教師の間では、教科書を使わないで修身教育を行う者が現れた。無論体制順応の教師は、そのような教育は行わなかった。当時の教育制度では文部省は視学官を各地方自治体に送っていて、尋常小学校の教育が文部省の方針通りに行われているか否かを点検させていた。教育現場の「警察官」とも言えた。

   視学官は、教師にとっては不快な存在であった。近代日本の教育が誤った方向に進んだのはこうした視学官の存在もあった。

    修身教育をもっと児童生徒にわかりやすく、そして大正デモクラシーの実践教育にしていこうとの試みと、それに対する視学官側の対立は大正期には決して珍しいことではなかった。 有名なのが1924(大正13)年の「松本女師附属事件」だったというのだ。この小学校の教員(当時の表現では訓導と言ったが) の修身の時間を、視学官や長野県の学務課長らが視察したときのことであった。この教員Kは特に臆することなく教科書を使わずに森鴎外の『護持院ケ原の敵討』を教材にして授業を進めた。そして授業が終わると、学務課長が教壇の前に進み出て、児童たちに「修身の教科書を持っているものは?」と尋ねた。以下、次のようなやりとりがあった(これは唐澤富太郎の『日本人の履歴書』に引用されている)。

   その課長は、児童の一人の修身教科書を手に、「あなたはこの教科書を教えましたか」と問う。するとKは、「まだ教えていません」と答える。課長は、児童の一人に「今は何の時間ですか」と尋ねる。問われた児童は、「先生のお話の時間です」と答えた。学務課長は居丈高に、「なぜ修身の教科書を教えないのか」と詰め寄っている。Kは特に答えていない。この光景は極めて象徴的である。視学官を前にして、学務課長は自らの監督不行き届けに面目が潰れたと激昂している様子が浮かんでくる。

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