2020年7月22日は、本来であれば東京オリンピックの開会式の日だ。今頃は世界から集ったアスリートが、晴れの舞台に臨んでいるはずだった。
「東京オリンピック」が災難に見舞われたのは、ご存じのとおり2度目だ。80年前の1940年、東京での初開催になるはずのオリンピックが戦争の影響で中止になった歴史は昨年の大河ドラマ「いだてん」などでも伝えられている。
ところで、中止となったオリンピックの代わりに日本が「東アジアだけの」国際大会を開催していたことをあなたは知っているだろうか。その名前は「東亜競技大会」。幻の五輪の代わりになった「東亜競技大会」はどんな事情で生まれ、どんな大会だったのか。
東京五輪返上で急転立ち上げ
東京オリンピック返上が正式に決定したのは1938年7月15日(正確には中止ではなく返上で、ヘルシンキに開催権を譲渡したが結局第二次世界大戦勃発で中止になった)である。
代わって日本スポーツ協会の前身・大日本体育協会などのスポーツ界で浮上したのが、東アジア限定の国際大会だ。様々なプランが検討された中で、日本・満州国・中華民国・フィリピン・ハワイの各地域が参加する形で固まったのが東亜競技大会となった。ただし中華民国は日本と戦争状態にあった蒋介石政権(重慶政府)ではなく親日の汪兆銘政権(南京国民政府)で、選手は日本の勢力圏にある華北からの参加が多い。フィリピンは当時まだアメリカの植民地だった。
会期は東京大会と関西大会に分かれ、東京大会が1940年6月5日~9日、関西大会が6月13日~16日となっている。種目は陸上、蹴球(サッカー)、庭球(テニス)、拳闘(ボクシング)、ホッケー、野球、籠球(バスケットボール)、レスリング、自転車、送球(バレーボール)、卓球、ハンドボール、ヨットがで、正式競技ではないが蒙古相撲・弓道などの実演も行われた。日本が1984年から五輪に参加するようになった野球が早くも採用されているのが、この地域(東アジア・太平洋)での野球熱をうかがわせる。
開会式は昭和天皇の弟の秩父宮夫妻臨席で明治神宮外苑競技場で開催され、宮城遥拝・君が代斉唱などが行われた。関西では橿原神宮競技場・甲子園球場・天王寺公園などが会場に選ばれている。24年後の東京五輪で使われた場所は神宮外苑くらいで、東京・関西で合計9日間の会期も返上した五輪(1940年9月21日~10月6日の予定)に及ばなかった。
開会式は「我らが民族の祭典」
開会式の様子を伝える当時の国策雑誌「写真週報」(内閣情報部発行)第121号の大会記事は、
「想えばオリンピック東京大会を放棄、ひたすら聖戦貫徹に邁進すること3年、昭和5年極東オリンピック大会以来十年ぶりに開かれた本大会は、日本。満州国、新生中華民国、比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)、蒙古の若人二千名が、スポーツによっていよいよ固き善隣友好と東亜若人の意義を世界に顕示する我らが民族の祭典である」
と伝える。「民族の祭典」はナチス・ドイツが国威発揚に利用した1936年のベルリン五輪の記録映画の邦題で、五輪を国家主義に結びつける文脈でしばしば使われていた。極東オリンピックとは東アジアで開催されていた国際大会・極東選手権大会の通称である。
もう1つ、オリンピックを意識したと思われるのは大会旗のデザイン。大会を記録したニュース映画「日本ニュース」に大会旗が映っているが、皇紀2600年の「2600」の文字が五輪マークに似たデザインになっている。東京オリンピックを前向きに「放棄」したと報じても、オリンピックを意識せざるを得なかったようだ。
日本の最大のライバルは?
耳目をあつめたのは花形の陸上と、プロ野球が始まったばかりの野球のようである。当時の雑誌「サンデー毎日」、スポーツ誌「アサヒスポーツ」などに大会の模様が記録されている。個人種目の陸上では18種目中10種目で日本選手が優勝し、団体競技もほとんどの種目で日本が1位を取った。ベルリン五輪に続いて日本の陸上選手団は精鋭の選手を送り込んだ。陸上界のエースと期待されながらベルリンではメダルを逃した「暁の超特急」こと吉岡隆徳が東京・関西でともに100m走で優勝、ベルリンの三段跳び銀メダリストの原田正夫が東京大会の三段跳び・走り幅跳びで二冠を獲得した。ベルリン五輪では10000mと5000mで4位に終わり涙をのんだ村社(むらこそ)講平は東京大会5000mで優勝し雪辱を果たした。
野球は「各競技種目を通じ最も人気を集めたエベンツ(イベント)であったことは事実である」(アサヒスポーツ)「野球日本断然強し」(サンデー毎日)と記された。ただし当時まだ「賤業」のイメージが強かったプロの選手ではなく学生野球の選手中心で代表チームを組んだ。ゆえに川上哲治・沢村栄治・鶴岡一人ら、この時代に活躍していたプロ野球草創期の選手たちは参加していない。
参加国の顔ぶれと「日本が圧倒」という結果だけを見ると、日本が傀儡諸国を参加させて「忖度」だらけの大会を開いたかのようにも見えるが、最大の好敵手として日本が警戒していたのはフィリピンで、大会自体は真剣勝負が続いた。野球では「日本球界にとって年来の好敵手」と評され、陸上競技では日本に次いで5種目で選手が優勝、バスケットボールで2位など善戦した。パスケットボールでのフィリピンチームは日本と「戦力ほとんど紙一重」(アサヒスポーツ)と評されている。フィリピンの成績がよかったのはアメリカの植民地でスポーツも普及していていたためだろう。一方政情が安定しない満州国や中華民国のスポーツはこの大会も起爆材にしてさらなる発展を、という論調で日本のメディアは大会の結果を評していた。
戦時中の大会とはいえしっかり公式記録は残っており、たとえばサッカーでは、JFA(日本サッカー協会)のサイトで、歴代のオリンピックなどの国際試合の中にこの大会での戦績も見ることができる。日本はフィリピン・中華民国・満州国と対戦し3戦全勝だったが、スコアはフィリピン戦が1-0、中華民国戦が6-0、満州国戦が7-0で、ここからも各国の実力差がうかがえる。
また選手名を見ていくと日本代表に朝鮮半島出身の選手(陸上の金源権)がいたり、満州国代表にロシア系や日系とおぼしき選手名が出てきたりするのも時代を反映している。
「紀元2600年」に絡め取られたスポーツ
JSPO(日本スポーツ協会)・JOCはこの大会について、「東洋選手権大会の理念や日満華交歓競技大会(註、いずれも戦前のスポーツ大会)を引き継ぎ、かつ東京オリンピック大会が兼ねていた紀元二千六百年の奉祝記念事業の意味合いを含む大会だった」と『日本体育協会・日本オリンピック協会100年史』で総括している。ただ、ことはそう単純ではなさそうだ。
もともと1940年のオリンピックは東京という一都市で開催されるはずの大会で、そこには関東大震災からの復興、皇紀2600年記念の大会という意味が込められていた。ところが東京大会の返上で東京市(1943年までは東京都ではなく東京市)は脇役になり、紀元2600年を国を挙げて祝う大会の一環、という色彩を帯びてくる。正式名称が「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」で東京だけでなく東京・関西での開催になったこと、「国際大会」のはずが君が代の斉唱や皇居遥拝が行われたのも端的にそれを表している。
加えて、東アジアでいち早くオリンピックに参加してスポーツを発展させていたのも日本なのだから、東京五輪返上を機に日本が東アジアのスポーツ界を主導したい、という意図が「写真週報」や「日本ニュース」の報道などにも見てとれる。返上した東京五輪の前のベルリン五輪で有名になった「民族の祭典」というスローガンも借用して国威発揚に利用された。
しかし、この大会も戦局の激化で継続して開催されることはなく、1942年8月に満州国建国10周年を記念した「満州国建国十周年慶祝東亜競技大会」が新京(現・中国長春)で開かれるにとどまる。
1964年の東京オリンピックは、この大会の開会式が挙行された明治神宮外苑競技場ではなく、それを解体してできた旧国立競技場で開会した。戦争でスポーツも満足にできなくなる時代に、オリンピックと国威発揚を都合よく切り貼りして開催された「東亜競技大会」だが、開催の大きな動機になった「皇紀」が忘れ去られたのと同じように、スポーツ史からも忘れられた記憶になっていたようだった。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)