「紀元2600年」に絡め取られたスポーツ
JSPO(日本スポーツ協会)・JOCはこの大会について、「東洋選手権大会の理念や日満華交歓競技大会(註、いずれも戦前のスポーツ大会)を引き継ぎ、かつ東京オリンピック大会が兼ねていた紀元二千六百年の奉祝記念事業の意味合いを含む大会だった」と『日本体育協会・日本オリンピック協会100年史』で総括している。ただ、ことはそう単純ではなさそうだ。
もともと1940年のオリンピックは東京という一都市で開催されるはずの大会で、そこには関東大震災からの復興、皇紀2600年記念の大会という意味が込められていた。ところが東京大会の返上で東京市(1943年までは東京都ではなく東京市)は脇役になり、紀元2600年を国を挙げて祝う大会の一環、という色彩を帯びてくる。正式名称が「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」で東京だけでなく東京・関西での開催になったこと、「国際大会」のはずが君が代の斉唱や皇居遥拝が行われたのも端的にそれを表している。
加えて、東アジアでいち早くオリンピックに参加してスポーツを発展させていたのも日本なのだから、東京五輪返上を機に日本が東アジアのスポーツ界を主導したい、という意図が「写真週報」や「日本ニュース」の報道などにも見てとれる。返上した東京五輪の前のベルリン五輪で有名になった「民族の祭典」というスローガンも借用して国威発揚に利用された。
しかし、この大会も戦局の激化で継続して開催されることはなく、1942年8月に満州国建国10周年を記念した「満州国建国十周年慶祝東亜競技大会」が新京(現・中国長春)で開かれるにとどまる。
1964年の東京オリンピックは、この大会の開会式が挙行された明治神宮外苑競技場ではなく、それを解体してできた旧国立競技場で開会した。戦争でスポーツも満足にできなくなる時代に、オリンピックと国威発揚を都合よく切り貼りして開催された「東亜競技大会」だが、開催の大きな動機になった「皇紀」が忘れ去られたのと同じように、スポーツ史からも忘れられた記憶になっていたようだった。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)