日本の最大のライバルは?
耳目をあつめたのは花形の陸上と、プロ野球が始まったばかりの野球のようである。当時の雑誌「サンデー毎日」、スポーツ誌「アサヒスポーツ」などに大会の模様が記録されている。個人種目の陸上では18種目中10種目で日本選手が優勝し、団体競技もほとんどの種目で日本が1位を取った。ベルリン五輪に続いて日本の陸上選手団は精鋭の選手を送り込んだ。陸上界のエースと期待されながらベルリンではメダルを逃した「暁の超特急」こと吉岡隆徳が東京・関西でともに100m走で優勝、ベルリンの三段跳び銀メダリストの原田正夫が東京大会の三段跳び・走り幅跳びで二冠を獲得した。ベルリン五輪では10000mと5000mで4位に終わり涙をのんだ村社(むらこそ)講平は東京大会5000mで優勝し雪辱を果たした。
野球は「各競技種目を通じ最も人気を集めたエベンツ(イベント)であったことは事実である」(アサヒスポーツ)「野球日本断然強し」(サンデー毎日)と記された。ただし当時まだ「賤業」のイメージが強かったプロの選手ではなく学生野球の選手中心で代表チームを組んだ。ゆえに川上哲治・沢村栄治・鶴岡一人ら、この時代に活躍していたプロ野球草創期の選手たちは参加していない。
参加国の顔ぶれと「日本が圧倒」という結果だけを見ると、日本が傀儡諸国を参加させて「忖度」だらけの大会を開いたかのようにも見えるが、最大の好敵手として日本が警戒していたのはフィリピンで、大会自体は真剣勝負が続いた。野球では「日本球界にとって年来の好敵手」と評され、陸上競技では日本に次いで5種目で選手が優勝、バスケットボールで2位など善戦した。パスケットボールでのフィリピンチームは日本と「戦力ほとんど紙一重」(アサヒスポーツ)と評されている。フィリピンの成績がよかったのはアメリカの植民地でスポーツも普及していていたためだろう。一方政情が安定しない満州国や中華民国のスポーツはこの大会も起爆材にしてさらなる発展を、という論調で日本のメディアは大会の結果を評していた。
戦時中の大会とはいえしっかり公式記録は残っており、たとえばサッカーでは、JFA(日本サッカー協会)のサイトで、歴代のオリンピックなどの国際試合の中にこの大会での戦績も見ることができる。日本はフィリピン・中華民国・満州国と対戦し3戦全勝だったが、スコアはフィリピン戦が1-0、中華民国戦が6-0、満州国戦が7-0で、ここからも各国の実力差がうかがえる。
また選手名を見ていくと日本代表に朝鮮半島出身の選手(陸上の金源権)がいたり、満州国代表にロシア系や日系とおぼしき選手名が出てきたりするのも時代を反映している。