1940年、日本は「アジアだけの五輪」を行った... 歴史の闇に消えた「東亜競技大会」の栄光

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開会式は「我らが民族の祭典」

   開会式の様子を伝える当時の国策雑誌「写真週報」(内閣情報部発行)第121号の大会記事は、

「想えばオリンピック東京大会を放棄、ひたすら聖戦貫徹に邁進すること3年、昭和5年極東オリンピック大会以来十年ぶりに開かれた本大会は、日本。満州国、新生中華民国、比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)、蒙古の若人二千名が、スポーツによっていよいよ固き善隣友好と東亜若人の意義を世界に顕示する我らが民族の祭典である」

と伝える。「民族の祭典」はナチス・ドイツが国威発揚に利用した1936年のベルリン五輪の記録映画の邦題で、五輪を国家主義に結びつける文脈でしばしば使われていた。極東オリンピックとは東アジアで開催されていた国際大会・極東選手権大会の通称である。

   もう1つ、オリンピックを意識したと思われるのは大会旗のデザイン。大会を記録したニュース映画「日本ニュース」に大会旗が映っているが、皇紀2600年の「2600」の文字が五輪マークに似たデザインになっている。東京オリンピックを前向きに「放棄」したと報じても、オリンピックを意識せざるを得なかったようだ。

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