外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(12)
ノーマ・フィールドさんと考える「人種・核・ウイルス」

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公民権・反戦・環境・LGBTQ

   米紙ワシントン・ポストは6月25日付紙面(電子版)で、「なぜ新型コロナはシカゴの黒人社会を最も激しく襲ったのか」という記事を掲載した。それによると、3月16日で最初のコロナによる黒人の死者が報じられて以来、シカゴではコロナによる黒人の死者は1千人を超えた。これは10万人あたり136人で、白人市民の2・5倍にあたる。これは全米の「2倍」という平均値をはるかに上回る数字だ。

   昨年、ニューヨーク大学が、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のデータをもとに分析した調査では、コロナ禍の前からすでに、南部の黒人居住区の住民の平均余命は、北部の白人多数居住区のそれよりも、約30年短かったという。コロナ禍は、それ以前からあった経済格差、医療格差を増幅したことになる。

   こうした町に長年住んできたノーマさんは、今回のフロイドさん殺人事件は、身に迫る問題として感じられた。

「殺害を記録した動画を見ました。いや、直視はつらくて、横目で、という感じですが。フロイドさんは、8分46秒の間、白人警官の膝に首を押さえつけられていた。逆に言えば、あの警官は人前で、8分46秒もかけて、同じ人間の息の根を自分の身体の一部を道具にして止めたのです。そこで思い出したのは、小林多喜二のことです。特高警察は築地署といういわば密室で3時間近くかけて拷問を加え、多喜二を殺しています。3時間弱と9分弱は数字としてはかなり違いますが、殺されるものにとって、目撃するものにとって、どちらもいたたまれなく長い時間ではないでしょうか。」

   たぶん、アメリカの市民を抗議に駆り立てたのは、間近に迫るその恐怖と、人間が虫けらのように扱われることへの瞋恚(しんい)だったろう。「それと、あの動画を見ることは、特殊な体験なのかも。人が徐々に、しかも無用に命を奪われることを目撃することは図らずもその行為に参加するような、潜在的な責任を感じるものではないか、とこのごろ思うようになっています。」

   フロイドさん殺害事件のあとに起きつつある激動について、ノーマさんは、68年当時に起きた変革と同じような、価値観をめぐる変化が起きつつある、という。

   68年のそれは、公民権・ベトナム反戦・ウーマンリブだった。今それは、公民権・反戦運動・環境問題・同性愛者の権利の運動などの相乗的な活動による変化だ。

   ベトナム戦争のあと、米国では徴兵制がなくなり、以前のように、一定の年齢層の若者すべてが直面する問題ではなくなった。だが、米国はその後も、毎年のように外国で武力行使を繰り返し、イラクやアフガニスタンのように、紛争地での長期駐留を続けている。ノーマさんは、ベトナム戦争のように、米国の若者の大多数が、直接巻き込まれる形での紛争がなくなっても、「戦争」はアメリカに戻ってくる、という。

「03年のイラク戦争に対する反戦集会に行った時、参加者の1人から、シカゴ市のホームレスの75%がベトナム戦争の退役軍人だという発言がありました。すでに92年の湾岸戦争の退役軍人も混じってきている、とも。いずれ、イラク戦争の帰還兵が加わるでしょう。戦争とそれに伴う『暴力性』は、米国でも貧困や薬物依存症の問題を招き、海外から還流する武器は、警察の武装強化に使われる。海外での『戦争』は、必ずアメリカ社会にも戻ってくるのです」

   環境問題について、ノーマさんはこの20年近く、核兵器と原発によって放射能の被害を受けた「ヒバクシャ」を追い続けてきた。

   核兵器と原発を繋げて考えるようになったのは、シカゴ大学の同僚で親しい友人となるシャロン・スティーブンズさんの体験を知ることにはじまった。シャロンさんはノルウェーの少数民族サミの人々の研究をしていたが、1986年のチェルノブイリ原発事故で彼らの生活が激変したことをきっかけに、原発による放射能被害の実態を調べ始めた。

   そのうち、シャロンさんは、子どものころから病弱でよく鼻血を流し、成人後もしばしば不良になる自分の体調が、幼いころに育った米西部ワシントン州のワラワラ市に関係があるのでは、と疑うようになった。同市は、米国が1945年に長崎に投下した原子爆弾を作る際、プルトニウムを製造して提供した地ハンフォードの風下にあるホット・スポットだった。シャロンさんは30代前半で重度の皮膚ガンが見つかり、手術を受けたが、チェルノブイリの調査のおかげで自分の被ばく体験に気づいたことに、感謝していたという。

   シャロンさんは1995年にノルウェーからアメリカに戻り、ミシガン大文化人類学・ソーシャルワークの助教授となったが、1998年にガンのために46歳で亡くなった。ノーマさんは、核兵器と原発の技術が隣接し、海外だけでなく米国内でも多くの「ヒバクシャ」を生み出してきた可能性に気づき、2004年からは大学で、「広島・長崎そして・・」という講義を続けた。

   原爆は、ノーマさんが幼いころから、米国人の父、日本人の母の間で、食卓での論争になったテーマだ。多くの米国人はいまだに、広島・長崎への原爆投下が、多くの米兵の命を救ったという「神話」を信じ、その被害を国内で訴えようとすると、第2次大戦の帰還兵らから抗議の声があがる。だが、原爆の製造に関わる全米各地でも、現実に多くの「ヒバクシャ」が生まれている。ハンフォードのように核施設が地域経済を支えている場合、被ばくの健康障害を訴えることは非国民呼ばわりを招きかねない。

   そうした講義を続けているうちに、2011年3月、福島第一原発の事故が起きた。

   私が最初にノーマさんにご連絡をしたのは、その翌月、彼女がシカゴ大で5月に、「原発」と「核兵器」を、ひと繋がりのものとして捉えるシンポジウムを企画していることを知ったからだ。その催しでは、2本の映画を上映して討議するという。科学者として原爆開発に携わった母親を描くM・T・シルビアさんの「アトミック・マム」と、上関原発計画に向き合う祝島の人々を描いた鎌仲ひとみさんの「ミツバチの羽音と地球の回転」だ。

   何度かのメールのやりとりでノーマさんにシンポの趣旨と、福島で起きていることをどう考えるか尋ねた。米国では今でも、「多くの米兵を救うためにはやむをえなかった」と原爆投下を正当化し、「さらなる大戦を防いだ」と冷戦期の核抑止力を評価する声が強い。そこから一歩でも脱け出るために、核実験や原発事故の被害を受けた「ヒバクシャ」を取り上げ、その催しも一年前から準備してきたという。

   福島原発について、ノーマさんは、当時こう書いた。

「この時期に日本にいないことがとても残念です。いかに情報収集をしても、原発近隣の人々の疲労、緊張、喪失感には想像が遠く及ばない。外で遊ぶことができない子ども、それを見守る親。妊婦の不安。お年寄りの心細さ。やはり想像を絶する」
「『帰る故郷がなくなった』という知人の言葉の重さは頭で分かっても共有できない。それが淋しくもある。運命を共有することによって生まれる絆もあるから・・・しかし緊急の場に置かれていないからこそ考える余裕があり、責任もあるはずです。原発での許し難い労働環境。すでに兆している差別の芽。地域に残り、とくに農業を続けようという意志が孕む矛盾・・・福島の原発事故は以前から直面すべき課題を私たちに突き付けている。根本的には、『平和』の質、つまり日常生活の質が問われているのだと思います」

   シカゴ大は、戦時中に原爆を開発したマンハッタン計画で、物理学者エンリコ・フェルミやレオ・シラードらが、初めて実験炉で持続する核の連鎖反応を実現させた重要な拠点だった。「核廃絶」を唱える当時のオバマ大統領がシカゴ大で教えた経験があったとはいえ、原爆や原発の「総本山」の一つで、その行く末に異を唱える催しを行うには、かなりの勇気が必要だったろうと思う。

   ノーマさんはその後もシカゴ大を拠点に、同じくシカゴにあるデュポール大宗教学部の宮本ゆき准教授、モンタナ州立大社会学・人類学准教授の山口智美さんらと、核と原発の被ばくを問うシンポジウムを開いてきた。

   その後、ノーマさんは被災地の福島をしばしば訪れ、残った人、避難した人々の双方との交流を続けてきた。今年も、3月には来日して福島の友人たちと話し合う矢先にコロナ禍が広がり、断念してZOOMで話し合っているという。

   今回、そのことについて話が及ぶと、ノーマさんは、「『天皇の逝く国で』と『小林多喜二』の仕事で身に着けた感覚が、福島を理解するうえで役立っている。いや、身に着けたものを、改めて福島から問われていると思います」と話した。

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