ノーマさんの「パリ5月革命」体験
私は5月末に、シカゴに住むノーマさんにメールを送り、インタビューの申し込みをした。本コラム第8回で書いた「世界一の感染国アメリカはどこへ向かうのか」で、ノーマさんが現状をどう見ていらっしゃるのかをご紹介したかったからだ。しかし当時は、ノーマさんも「自粛」を余儀なくされ、ご自宅にこもる「非日常」の生活を送っていらした。近所に住む娘さんやお孫さんともZOOMなどで話すしかなく、むしろ、ご自分の「巣ごもり」を支えてくれる人々への「申し訳なさ」が先に立った。
その後、何度かメールでやり取りするうちに、「少し落ち着いてきたから」と応諾してくださって、ZOOMインタビューが実現した。事前のメールのやり取りで、私が気になるノーマさんのくだりがあった。白人警官による黒人のフロイドさん殺害事件が起き、コロナ禍に加え、全米で「ブラック・ライブズ・マター」運動が広がった最近の動きに触れたあと、ノーマさんはこう書いていた。
「しかし、こんなにはやい歴史の流れは経験した覚えがありません。1968年の『5月革命』のときはフランスの大学にいましたが、まだ歴史が動くことがどれほど稀有なことか、認識していませんでした」
著書などでに掲載された略歴によると、ノーマさんは「1974年にインディアナ大で東アジア言語文学修士を取得。来日して研究し、1983年にはプリンストン大で博士号取得」となっていて、大学やフランスの大学については触れていない。たぶん、その後のノーマさんの学風や行動の素地には、履歴に書かれていない若き日の「激動」が影響しているのではないか。インタビューでまずうかがったのは、そのことだった。
ノーマさんは65年から69年までの4年間、カリフォルニア州にあるクレアモント・カレッジズの大学で学んだ。これは5つの大学、2つの大学院からなる複合大学で、ノーマさんが通ったのは、ピッツアー・カレッジだった。設立二年目、すべてをコミュニティ-全体で議論して構築する、という実験性に惹かれて選んだ。そこで68年、3年生の時に1年間、フランス東部の町ブザンソンに留学した。
ブザンソンは、国際指揮者コンクールで知られる古都で、古代ガリア・ローマ期の史跡がある町としても有名だ。前年の秋、新学期に合わせてはじまったブザンソンでの生活は静かというより寂れた古都の暗さが印象的だった。それが春になり、お隣のドイツから激しい学生運動の便りが伝わってきたかと思うと、ブザンソンを含めて、フランス全土で「5月革命」なるものが起こった。ノーマさんはその雰囲気を肌で感じることになる。
「古い大学なので、門を閉めれば外界から孤絶する。そこで、学生は毎晩のようにワインやチーズを持ち寄って議論を続けました。ある晩には、『法学部と医学部のファッショ』が襲撃に来るというので、『戦闘位置につけ』という指示が出ました。『あなたは外国人だから負傷者の手当をしなさい』、と重たい木箱をポンと渡されて、落としそうになった。結局、その晩は何事もなく学生寮に帰りましたが、翌朝登校したら、廊下に血痕が残っていました。ブザンソンを去ってから知ったことですが、6月に入って、地域にあるプジョーの工場で初の労働者の死が記録されています。私はまだ若かったからでしょうか『革命に出会った』と漠然と興奮はしましたが、その歴史的価値をきちんと理解していなかった」
当時はまだ欧州に、アメリカに対する文化的な優越感が残っている時代だった。それにベトナム戦争批判が重なった。下宿のおばさんやその知人に面と向かって、「私はアメリカ人は嫌い。でもあなたは半分日本人だから、まだマシ」といわれ、驚いたという。
夜のキャンパスの集まりで、教師から、「マドモワゼル、米国に帰ったら、アメリカ人にいかに革命を起こすか、教えてあげなさい」と言われたが、帰国した米国は、さらに激変を遂げていた。
母校の大学では、教授や学生を問わず、ベトナム戦争を中心に、幅広い問題について話し合う学内集会のティーチ・インが開かれた。留学前に寮で気軽な付き合いがあった黒人の女子学生は、当時の黒人差別反対運動に刺激されてのことだろうか、ノーマさんに対しても、とげとげしくなっていた。ベトナム反戦運動、公民権運動、ウーマン・リブ運動がごく短期間に重なりながら先鋭化し、歴史の激動がキャンパスを覆っていた。
ベトナム戦争当時はまだ徴兵制が敷かれ、1969年から数年間、若者たちはクジで戦争に駆り出された。当時は、教職に就くと1年間兵役を猶予されたため、反戦運動に共鳴する若者の多くが教師になった。卒業後、結婚していた夫がメイン州の小学校に教師として赴任したため、ノーマさんもカナダ国境に近い人口900人の街に行き、フランス語の代用教員を務めたという。生徒の8、9割はカナダからの移民の子で、家庭は樹木伐採業だった。ノーマさんが日本で育ったと知ると、大家の娘さんが野菜を見せながら、真顔で、「ニンジン知ってる?キュウリ知ってる?」と問われるほど、外国の知識からは疎い僻陬(へきすう)の町だった。
反戦は当たり前、と思っていたノーマさん夫妻は、大学の世界がいかに狭いものか思い知らされることになる。国旗に忠誠を誓う儀式を忘れがちな夫は「子どもたちに忠誠を誓わせないらしい」などと噂を立てられた。貧しい僻地では、国が起こした戦争に逆らう雰囲気はまだまだ乏しかった。反対を掲げることが特権的でありうることをはじめて知る体験となった。